宇都宮太郎大将の日記にみる三・一運動と朝日新聞

文責はすべて、酒たまねぎや店主の木下隆義にございます


 

平成19年3月1日木曜日晴れ ×
 今日は朝鮮にとっては「三・一独立運動」とやらの暴動を記念すべき日です。その南朝鮮酋長である盧武鉉氏はこの日の演説でも反日演説をやっているそうです。
http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=85055&servcode=200&sectcode=200
 朝鮮日報日本版の朝日新聞の昨日、二月二八日の第一面も「3.1運動の鎮圧 詳述」とでっかく前祝。そして、<宇都宮大将15年分の日記>
<虐殺隠蔽「抵抗理由に殺す」「恨みは自然」朝鮮人を懐柔>などという見出しが並びます。
 今日の社説までその記事関係です。

 宇都宮大将の日記はあの岩波書店から出版されるそうです。岩波書店というと「リットン報告書」「紫禁城の黄昏」の日本語訳で都合の悪い部分は全部カットして出版するというすばらしいテクニックをお持ちですので、今度も期待できそうです。
しかし、こんな記事が第一面に持ってくるようなことでしょうか。普通でしたら「君が代 伴奏命令 合憲」という最高裁判決が第一面トップに来るものだと思いますが、流石に朝日新聞は違うようです。
 逆に違憲となっていたら第一面トップに持ってきたでしょう。
 しかし、この朝日新聞の記事も醜いものです。
以下引用

<虐殺隠蔽「抵抗理由に殺す」「恨みは自然」朝鮮人を懐柔>
 
日本統治下の朝鮮で1919年に起こった3.1独立運動の際に朝鮮軍司令官だった宇都宮太郎大将(1861〜1922)の15年分の日記など、大量の史料が見つかった。
独立運動への鎮圧の実態や、民族運動家らに対する懐柔などが詳細に記されている。
宇都宮は主に情報収集を任務とし、日露戦争前後に英国で世論工作に携わったほか、辛亥革命では三菱財閥から活動費10万円を提供させ、中国での情報工作費にあてた。
旧軍の対外情報活動をはじめ、日本のアジア政策の裏面史を含む貴重な記録といえそうだ。
 3.1独立運動が朝鮮全土に拡大し、朝鮮軍などが鎮圧する中で19年4月15日、 「堤岩里事件」が起こった。宇都宮日記によれば、ソウル南方で日本兵が約30人を教会に閉じこめ虐殺、放火。宇都宮の知らぬ間に発生した事件だったが、朝鮮軍は発表で虐殺や放火を否認する。そこに至る経緯が日記に詳しい。
「事実を事実として処分すれば尤(もっと)も単簡なれども」「虐殺、放火を自認することと為(な)り、帝国の立場は甚(はなはだ)しく不利益」となるため、幹部との協議で「抵抗したるを以(もっ)て殺戮(さつりく)したるものとして虐殺放火等は認めざることに決し、夜十二時散会す」(4月18日)。翌19日、関与した中尉を「鎮圧の方法手段に適当ならざる所ありとして三十日間の重謹慎を命ずることに略(ほぼ)決心」。実際、30日間の重謹慎処分となった。

独立運動が始まった当初、宇都宮は従来の「武断政治」的な統治策を批判し、朝鮮人の「怨嗟(えんさ)動揺は自然」と日記に記した。そして、後の「文化政治」の先取りともいえる様々な懐柔工作を行った。朝鮮人の民族運動家や宗教者らと会い、情報収集や意見交換に努めたことが日記から分かる。
日記以外の史料は、書簡5000通、書類2000点など。日露戦争期に英国公使館付武官だった時に、ロシアの革命派らを支援して戦争を有利に導こうとする「明石工作」を、資金面で支えたことを示す小切手帳もあった。
これら多様な史料によると、宇都宮は英国で対ロシア包囲網を作るため、新聞に英軍改革を求める投書を匿名で出すなどの活動をした。また、辛亥革命時は海外情報・諜報(ちょうほう)担当の参謀本部第2部長だったが、政府方針に反して孫文らを援助。日記によれば、三菱財閥の当主・岩崎久弥に革命派への工作費10万円の提供を要請して受け入れられ、軍人らを派遣して革命拡大を図り、中国内の分裂を目指した。
宇都宮の長男は、軍縮問題や対アジア外交への取り組みで知られた故・宇都宮徳馬参院議員。日記は「日本陸軍とアジア政策 陸軍大将宇都宮太郎日記」(全3巻)として4月以降、岩波書店から刊行される。
19年4月18日の宇都宮日記。堤岩里事件の処理をめぐって「事実を事実として処分すれば尤(もっと)も単簡なれども」「虐殺、放火を自認することと為(な)り、帝国の立場は甚(はなはだ)しく不利益と為り」とある。

引用終わり

 我国にとって脅威であるロシアに対しての工作は当たり前ですが、それに対して<明石工作 宇都宮は、参謀本部を経て01年に駐英武官になると、駐スエーデン武官・明石元二郎がロシアの弱体化を企てた「明石工作」を支え、資金の運用や情報収集にあたった>(三四面の記事)と書きます。何か悪い事でもしているのでしょうか。軍人としては当たり前の事でしょう。朝鮮人を懐柔と書いた見出しですが、同じ三四面の記事では<「排日派」と目される朝鮮人との接触にも積極的で、日本批判の言論活動をしていた民族運動家と数回会って意見交換している(二〇年二月二〇日、四月九日など) また、三・一運動の最中に天道教に対する懐柔を提言し(一九年三月二〇日)>と書いています。見出しから受ける印象とはえらく違います。
 暴動に対してそれを鎮圧し、その後、再発防止にむけて話し合いなど努力したとしかとれません。何処が問題なのでしょう。
 ましてや、三・一運動において最も非難される「堤岩里教会事件」といわれるものについては、暴徒を鎮圧する過程において殺害したのは事実であり、それに対して行き過ぎであったということで、処分されている。朝鮮の新聞やあの悪名高い捏造書「朝鮮独立運動の血史」(朴殷植)などが書くように「赤ん坊まで殺し」などということはなく、全員が男性であった。
 これは当時、英国紙「モーニング・アドバイザ」京城特派員四月二日付けレポートよりの引用として「万歳事件を知っていますか」(木原悦子著)において、「殺害されたキリスト教信者一〇名、天道教信者二五名、全員が男性」と記述しています。
 また、在英日本大使館も同紙の英国版記事を読んでその抜粋記事「日本兵一隊はキリスト教徒宅全てに訪れ、そこの男たちに教会に集まる様に言って回った。この話は、非キリスト教徒で殺されなかったある老人から、カーチス氏(英外交官)が聞いたものである」と外務本省に送付している。
 (「植民地朝鮮の研究」杉本幹夫著 展転社 p六六) 
 そして、同じく杉本氏は日本総督府憲兵隊司令官・児玉惣次郎の報告として
 <当時の状況 三月下旬、同地方では官公署の破壊焼却されたものが少なくなかった。殊に花樹、抄江の両地では巡査を虐殺し、其の死体を凌辱した。また当地在住の内地人の被害頻々として起こり、民心の恐怖・憤怒一時其の極みに達した。発案場に於いては三月三一日、市ノ日に際し、約一〇〇〇名の暴民が太極旗を押立て路上演説をし、内地人家屋に投石暴行し、終に白昼小学校に放火して高唱する等の暴行を行った。翌四月一日晩より発案場周囲の山上八〇余箇所にかがり火を焚き、内地人の退去を迫った。その為、内地人婦女四三名は幾多の危険、困難を排し三里離れた三渓里に避難した>
 <有田中尉は、同地方騒擾の根源は堤岩里における天道教徒並にキリスト教徒であるとの事を聞き、この検挙威圧の目的で(中略)堤岩里に到着すると、巡査補に命じて天道教徒及キリスト教徒二〇余名を、キリスト教の教会に集合させた。そして先回の騒擾及将来の覚悟について、二、三質問している間に、一人が逃亡しようとしたので、直ちに之を斬棄てた。この状況を見て、朝鮮人全部が犯行の態度に出て、その一部は木片または腰掛等を持って打ちかかってきたので、直ちに外に逃げ出て兵卒に射撃を命じ、殆ど全部を射殺するに至った。この混乱中、西側隣家より火を発し、暴風のため教会堂に延焼し、遂に二〇余戸」を焼失するに至った>
 長谷川好道総督による原敬首相宛の報告書
 <以上、検挙班員及軍隊の行為は、遺憾ながら行き過ぎであり、かつ放火の如きは明らかに犯罪であるが、今日の場合、正当の行為と公認するのは、軍隊並びに警察の威信に関し、鎮圧上の不利となるのみならず、外国人に対する思惑もあるので、放火はすべて検挙の混雑の際に生じた失火と認定し、当事者に対しては、その手段方法が問題であった罪により、その手段方法が問題であった罪により、その指揮官を行政処分に付す事とした>

 この事より警察権を有する有田小隊に依る取り調べ尋問が、取り調べ側人数の二倍強三倍近くいた被疑者たちに対して行われた際、被疑者側の一人が逃亡を図り抵抗し、他が逃亡幇助の公務執行妨を犯したことから、本事件が偶発的に発生したことが分かる。近隣の朝鮮人住民よりも「発案場小学校を焼き暴行に及んでいる犯人達を掃滅して欲しい」との懇願を受けていた。
 そして杉本氏はこのようにも書いています。
「今日只今、米国内でこの様に、犯人とその逃亡幇助者たちが数を頼んで、警官たちに反撃するならば、警官たちは躊躇なく発砲に及ぶのではなかろうか」
(「植民地朝鮮の研究」杉本幹夫著 展転社 p六四〜六五) 

 暴徒を鎮圧する上での発砲で、それにより死者をだし、それに対して処分もしています。

大発見?(三・一運動2)
3月2日金曜日 晴れ

 昨日も書きましたが、三月一日の社説からは朝日新聞の姿勢がよ〜くわかります。
以下引用
 
きょう、韓国は休日である。「3・1独立運動」を記念してのことだ。1919年のこの日、 日本の植民地統治に抗する朝鮮の民衆が立ち上がった。運動は朝鮮全土に広がっていった。
略)
気勢をあげる民衆。鎮圧する日本軍。さまざまな場面を描いたレリーフ群が並んでいる。実際はどうだったのだろう。抵抗を抑え込もうとする軍の行動などを記した大量の史料がこのほど見つかった。当時、朝鮮軍司令官だった宇都宮太郎大将の日記や書簡などだ。
例えば「堤岩里事件」。日本兵が約30人の民衆を教会に閉じ込め、虐殺し、火を放った。日記は、そうした事実を認めれば「帝国の立場は甚(はなはだ)しく不利益」になると、軍司令部として否認を決めた隠蔽(いんぺい)の経緯などをつづっている。宇都宮は武器使用を制限する訓示を出していた。事件はその宇都宮が知らないうちに起きた。こうした内実が当事者から詳しく明かされるのは初めてだ。
日本は植民地支配で鉄道や港を整備した。後の韓国の発展につながっていく善いこともした――。
そんなことを強調する人もいる。だが、統治の実態は相手を踏みにじり、生やさしいものではない。

宇都宮日記は、そういう現実の一断面を生々しく物語っている。武力による強硬な植民地統治に対して批判的な記述もある。当時の軍高官にそんな考え方があったことも改めて確認することができた。
ロンドンに駐在した経験を持つ宇都宮は、アジア発展への強い思い入れがあったようだ。そんなところは、アジアとの和解や軍縮問題で活躍した長男で自民党政治家だった故宇都宮徳馬氏に継がれたのだろう。
いずれにせよ、当事者による第一級の証言史料である。
近隣の国々との付き合いでは、
双方が誠意をもって歴史に向き合うことが欠かせない。だが、歴史にはまだまだはっきりしない部分も残る。その空白を埋めるには、今回のような史料の発掘が大きな手掛かりになる。これらをもとに、冷静に分析して役立てていく。それも日韓や日中が協力し、共通の土俵で議論する。そういう取り組みを広げたい。
日韓の専門家らが10年がかりで編んだ高校生向けの歴史共通教材がきょうから店頭に出る。
ひとつの成果だ。政府の肝いりの事業では、02年からの日韓共同歴史研究に続き、新たに日中間でも同じ作業が始まった。残念なのは、日韓の第2期共同研究がまだスタートできないことだ。
人選の混乱などもっぱら
日本側の事情が原因になっているようだ。早く環境を整えてもらいたい。
引用終わり

 いかにも日本側が悪いような書き方です。しかし、この三・一運動という暴動や「堤岩里事件」については我国は法治国家として処理してきています。そして第一面に持って来て、続いて社説にまで載せるような記事でしょうか。
 岩波書店からすでに発売が決まっているのですから、昨日、今日見つかったものではないでしょう。
「宇都宮太郎関係資料研究会」なるものがあり、日記等多くの資料が数年前より日本女子大学に託され既に多くシンポジウムなど開かれているようです。
http://athena.jwu.ac.jp/JWU_mail/200504/html/news6.html
シンポジウム「宇都宮太郎関係資料から見た近代日本と東アジア」
史学科教授 吉良 芳恵
2月26日(土) 午前10時から午後6時まで、百年館高層棟5階502・503・504会議室で、シンポジウム「宇都宮太郎関係資料から見た近代日本と東アジア」が開催された。
 宇都宮太郎関係資料研究会(代表・吉良芳恵)が科学研究費補助金を得て開催したもので、 明治大正期の陸軍軍人宇都宮太郎と東アジアやイギリスとの関係を、斎藤聖二・孔祥吉・大山瑞代・ 櫻井良樹・吉良芳恵がそれぞれ報告、その後コメンテーターを含めて熱心な討議がなされた。

このシンポジウムは、該資料の歴史的価値を広く学界に紹介する最初の試みで、新事実を含む新しい視点が披露され注目をあつめた。
なお、約7千点にものぼる資料(日記・書翰・書類・写真等)は、現在日本女子大学に託され(借覧中)、整理が続けられている。


 二年前から開かれているシンポジウム。もう本の出版も決まっている。何度も書きますが、それをわざわざ朝鮮の三・一運動にあわせて第一面に持ってくる朝日新聞。
 じゃあ、台湾の「二・二八大虐殺」も書けよな。数百人ではなく三万とも五万ともいわれる台湾人の人々が大陸から来た支那人によって殺戮されているのだから。

<日韓の専門家らが10年がかりで編んだ高校生向けの歴史共通教材がきょうから店頭に出る。>
って、こっちの方は二七日だったかの朝日新聞でしっかりと記事にして宣伝していたし。

三・一運動とキリスト教
3月3日土曜日晴れ ×

 そもそも、三・一運動の原因の推定としてはアメリカのウィルソンの民族自決主義の提唱とそれを煽った宣教師による影響。朝鮮併合に一生懸命努力したのに併合後は解散させられた一進会の恨み。李朝の末裔である英親王・李垠殿下と梨本宮方子妃との婚約(李朝の血が汚辱され断たれると思った)と、皇帝であった高宗の急死(日本人が殺したという噂がながれた)。何よりも日本人に対しての反感などがあったとされている。
 その中でキリスト教アメリカ人宣教師による民族自決運動の煽りが大きいといわれています。キリスト教は布教を許されてから、わずかの期間で民衆の支持を得ました。その中で最大の勢力を誇ったのがアメリカ長老派といわれる連中でした。支那でもキリスト教による独立運動の煽動、反日運動の支援は行われていました。
 白人の侵略の先兵であるのは武力という軍隊だけではありません。必ずキリスト教宣教師がついていきます。侵略の先兵として侵略予定地に乗り込んだり、征服地において民衆の宣撫策に重要な役割を果たしています。我国において織田信長、豊臣秀吉は当初布教を許したが、その後、豊臣秀吉そして徳川家康などが宗教上の布教を許さなかったのは、宗教一揆のおそれのあるなどのキリスト教の本質を見抜いたためです。

 一進会は日露戦争当時から併合のために種々の運動をしてきたが、併合がなると、他の政治勢力とともに解散させられ、一切の政治発言を禁じられました。更に当時のお金で三〇〇万円程度といわれる補助金で、満州の間島に新天地を築く夢も画餅に終わりました。その一進会の会員は元来、東学党の乱を起こした天道教の教徒であり、日本への対応を巡り、第三代教主孫秉煕と袂を分かったのですが、日本政府の処置により孫秉煕の元に戻りました。そして、その孫秉煕は朝鮮における集会の中心人物である京城にある普成専門学校(現高麗大学)の校長であった崔麟により代表に据えられました。三・一運動に東学党の乱を経験している彼らが加わる事に依りよけい苛烈なものとなった。
 「子爵斉藤実伝」によると容疑者一九五二五人中キリスト教徒三三二八人、天道教・侍天教信者二二九七人、他は無宗教・不祥となっている。

(日韓共鳴二千年史 名越二荒之助 明成社 p三三二)  
(「植民地朝鮮の研究」杉本幹夫 展転社 p六九)
(「破約の世界史」清水馨八郎 祥伝社 p二二)


三・一事件と裁判
3月4日日曜日 晴れ ○

 三・一事件に関して下記のような記述の本が数多くあります。
 「警察と憲兵は捕らえたものに過酷な拷問を加えた。日本軍の弾圧に依る死者は七〇〇〇名、負傷者は一六〇〇〇名、検挙者は約四万七〇〇〇名にも及んだ」(「日本の七〇年戦争」丸山静雄 新日本出版社p五二)

 我が国はこのような事を本当にしたのでしょうか。
 三・一事件の前となる「二・八事件」は朝鮮半島よりの留学生による東京などでの独立宣言で、東京集会では二十九名が逮捕された。しかし、独立宣言に署名した一一名中、九名を除き釈放。起訴された九名は、弁護士として当代の第一人者であった花井卓蔵、布施辰治らが無報酬で弁護を引き受け、内乱罪などに問われる事なく、文書の無断配布を問う出版法第二六条に問われ、最高九カ月の判決が下っただけでした。
 三・一運動という暴動ともいえるものに対しても我国は法治国家として公正な裁判を行いました。

 朝鮮人暴徒は棍棒、鎌、鍬、竹槍または稀に拳銃を使って軍隊、警察に抵抗した。さらに官公署や学校を襲い、放火、破壊を行ない、内地人の家産あるいは巡査補、憲兵補助員(朝鮮人が担当)の居宅を犯し、日本人の憲兵六名、警察官二名を殺害したが、被疑者に対しては朝鮮固有の拷問は皆無で、証拠主義に徹し、多くの被疑者が無罪放免となった。
 さらにこのような暴動なのに死刑も無期も一人としてなく、軽罰の判決しか出さなかった。とくに、四月三日に水原郡雨汀面(村)花樹警察官駐在所(日本人巡査一名、朝鮮人巡査補三名が勤務)の川端豊太郎巡査を石と棍棒で殺したうえに、(創痕五一ケ所)、耳と鼻をそぎおとし陰部を切断した惨殺事件があったが、裁判は報復的な事は一切しなかった。

 官公署の被害(四月二五日現在)は、朝鮮総督府の調査によれば、面事務所(村役場)全壊一九ケ所。うち放火によるもの五。同じく面事務所の窓硝子破壊、器物・書類の焼却など一部破壊二八ケ所。警察署・警察官駐在所・憲兵分隊・同分遣所・同駐在所については全壊一六ケ所、一部破壊二九ケ所。郵便局の全壊二ケ所、一部破壊九ケ所。
 前述の川端巡査殺害と放火で起訴された被告五二名につき、予審を担当した京城地方院(地方裁判所)は半数にもなる二五名を証拠不十分で免訴かつ放免を決定。高等法院(最高裁判所)に刑法七七条該当として送致されたのは二七名のみであった。

 五月八日現在まで送検された一万二六六八名のうち、その時点で三七八九名を不起訴処分。一一五一名については取調中。この時点で起訴されたものは六四一七名の約半分に過ぎなかった。検事もまた裁判官と同様、行政(警察、憲兵)から完全に独立して、朝鮮人に対して日本国内の日本人被告と同一の扱いをしたのである。
 検察に起訴されても裁判に於いて無罪となるものも多かった。この暴動の被告に対する五月二〇日時点までの第一審判決は、有罪が三九六七名、無罪が五八名、免訴が一名。
 有罪にしても死刑がなし。無期もなし。一五年以上もなし。一〇〜一四年以下が六名。七〜九年以下が一名。五〜六年以下が二三名。三〜四年以下が五〇名。
 三年以上の禁固刑となったものは、有罪となった三九六七名のうち僅かに八〇名しかおらず、二%に過ぎなかった。また、よく記述される死者七五〇九名などという数字がいかにでたらめな数かわかります。
 三・一事件をもって朝鮮総督府が朝鮮人を弾圧したという記述がいかにいい加減なものか。この公正な裁判による事実がすべてを現している。

 (日韓共鳴二千年史 名越二荒之助 明成社 p三二八〜三三〇)
 (「歴史を偽造する韓国」中川八洋 徳間書店p九二〜九四 中川氏はこれらを「現代史資料 朝鮮2」みすず書房、近藤釼一編「万歳騒擾事件1」友邦協会より引用)


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