廣枝音右衛門(広枝音右衛門)
文責はすべて、酒たまねぎや店主の木下隆義にございます。
廣枝音右衛門(広枝音右衛門)
平成15年5月15日木曜日雨 平成18年2月20日月曜日追記 平成23年8月13日土曜日追記

廣枝音右衛門は明治三十八年十二月二十三日、神奈川県足柄下郡片浦村(現在の小田原市)で生まれ、逗子の開成中学、日本大学予科と進み、昭和三年四月二十三才のときに幹部候補生として佐倉歩兵第五十七連隊に入隊、軍曹となり満期で除隊後、湯河原の小学校教員などをへて、昭和五年台湾にわたり競争率百倍という難関の台湾総督府巡査となる。
ついで、警察官及び司獄官教習所に入所、乙科生として学び、新竹州巡査として竹南郡勤務となる。同郡では主に警察課勤務をしている。
此の時代は台湾における警察官の任務として、治安維持は当然として、内地の日本人と同等の教育・文化水準に引き上げるということで、行政面でも重要な役割を託されていた。
台湾の行政区画は二十で、各庁に警務課が設けられ、庁の下には支庁があり、警部が支庁長を務めた。
大正九年、文民の田健治郎台湾総督が就任すると、「支庁長」が廃止され、「郡守」が設けられ行政権と警察権を分離させ、警察権は郡守の下に置かれた。
行政の中に警察があるため、台湾の警察は単に犯罪を取り締まるだけでなく、行政施行の任務も含まれていた。たとえば、衛生清潔運動の検査をはじめ、道路建設や補修、耕地や防風林の植林、農産物の耕作計画、納税の催促、経済政策の執行、浮浪者の収容、職業訓練など、人々の生活にかかわるあらゆる面をカバーしていた。
日本の台湾領有当時、台湾では憲兵が三千四百人、警察官が三千百人であった。人口の増加に伴い憲兵、警察官が一万人前後まで増加していった。これだけの人数で台湾の治安を守り、台湾近代化最大の守護役を担ったのが彼等である。
そして、住民と直接接触する警察官は、台湾語は必須であった。日本人の中でも最も台湾語が堪能だったのは彼等である。これに比べて、戦後台湾に入って来た国民党の警官は台湾語を学ぼうとせずにほとんどできなかったため、トラブルが絶えなかった。
廣枝音右衛門は昭和十七年五月警部に昇進。新竹州竹南郡政主任勤務(新竹州警部)の時に大東亜戦争による戦線拡大にともない台湾で結成された総勢二千名におよぶ海軍巡査隊の総指揮官に海軍巡査として任命される。
昭和十八年十二月八日朝、廣枝隊長に率いられた海軍巡査隊は、高雄港より特務艦「武昌丸」に乗り込み、フィリピンはマニラ・ガビデ港へと向かう。廣枝隊長は家族四人を残しての離台であった。マニラでは厳しい訓練に次ぐ訓練のなか、廣枝隊長は常に部下の先頭に立って、励ました。そんな廣枝隊長を部下もとても慕ったそうです。巡査隊の任務は主に物資の運搬、補給など後方支援であったが、戦況は刻々と悪化する。昭和二十年二月、マニラ市近郊に上陸した米軍に対峙する事三週間、海軍巡査隊にも棒地雷と円錐弾が配られ「これで敵戦車に体当たりしてその場で全員玉砕せよ」と総攻撃の命令を受けた廣枝隊長は、巡査隊の小隊長を務めていた劉維添(りゅういてん)氏を伴い、台湾人の命を保証するよう密かに米軍と交渉する。
その結果
「諸君(台湾人海軍巡査隊)はよく国の為に戦ってくれた。だが、もうよい。戦闘の続行は不可能である。そうはいっても、今ここで軍の命令どおり玉砕する事は犬死に等しい。祖国台湾には、諸君らの生還を心から願っている家族が待っているのだ。全員、米軍の捕虜となろうとも生きて帰ってくれ。責任はすべて私がとる。私は日本人だからね」
そう言い遺して廣枝隊長は、壕に入り拳銃で二発頭部を撃ち自決した。
昭和二十年二月二十三日午後三時頃のことであった。享年四十才。
この一死をもって代えた廣枝隊長の決断により、海軍巡査隊の台湾青年たち二千名は故郷の台湾に無事帰る事ができた。
その時の恩を忘れぬ台湾の部下の方々により、台湾仏教の聖地である獅頭山にある観化堂に、廣枝音右衛門隊長をお祀りして供養する式典が、昭和五十一年九月二十六日におこなわれました。
これは、廣枝音右衛門隊長の戦死の実情を根気強く調査した台湾新竹州警友会の人々の成果です。この台湾における慰霊顕彰の動きは、日本にも伝播し、廣枝隊長の義挙を末永く語り継ぐべく「顕彰碑」の健立となって実現する。
弘経寺にある顕彰碑の後半にはその時のことが彫られている。
<泰然自若として所持の拳銃を放ちて自決す
時に二月二十四日なり その最後たる克く凡人の為し得さる所
宣なるかな戦後台湾は外国となりたるも この義挙に因り生還するを得
吾等の今日あるは彼の時隊長の殺身成仁の義挙にありたればこそと 斉しく称讃し此の大恩は孫々に至るも忘却する事無く 報恩感謝の誠を捧げて慰霊せんと 昭和五十一年九月二十六日隊長縁りの地
霊峰獅子頭山権化堂にてその御霊を祀り 盛大なる英魂安置式を行う
この事を知り得て吾等日本在住の警友痛く感動し相謀りて故人の偉大なる義挙を永遠に語り伝えその遺徳を顕彰せんとしてこの碑を健立す
元台湾新竹州警友会>
と記されています。
私は平成十八年二月二十日月曜日、その日はあいにくの雨でしたが、取手の弘経寺にある廣枝音右衛門海軍巡査隊長の遺徳顕彰碑を訪ねる事ができました。
取手駅にある交番で「弘経寺(ぐぎょうじ)」と尋ねても、年輩のお巡りさんも若いお巡りさんもすぐにはわからずに、住所を言ってはじめて教えてもらう事ができました。駅からは歩いて一五分ほどでしょうか。
大きな敷地のりっぱなお寺さんです。廣枝家の墓域に、「ああ壮烈 義人 廣枝音右衛門」と書かれたその顕彰碑は建てられていました。
昭和五十八年五月、小隊長をつとめた劉維添氏は、かつての隊長の自決の地であるフィリピンを訪れ、隊長終焉の地の土を集め、茨城県取手市に住むふみ未亡人の手渡されたそうです。
(ふみ未亡人は平成元年二月十日、七六才で死去)
こうして広枝隊長は、獅頭山の権化堂に神様として祭られ、鬼籍の人となったふみ夫人も、広枝隊長の位牌とともに、かつての部下だった新竹警友会の人たちの手によって観化堂に祭られたそうです。
今回の台湾行きの目的の一つは、廣枝音右衛門海軍巡査隊長とその妻であるふみ夫人が神として祀られている新竹県にある観化堂に御参りする事でした。

台北駅より急行で約一時間半で竹南駅に着き、そこからバス(一日乗り放題で百元)かタクシー(六百元)で台湾の仏教聖地獅頭山化堂口に着く。

開山は百年以上前で道教の寺であったが、曹洞宗の寺院となり、其の後、この獅頭山には現在は大小十八の寺院が存在する。その一つが観化堂であるが、この山全体の名称も観化堂と呼ばれている。

山道を登り、観化堂に行けるが、現在は観化堂のすぐ側まで車で行くことができる道があり、この山道はすっかり寂れてしまっている。



途中にある「常夜灯」
それに伴い門前町も寂れてしまってほとんど人の気配がない。

車ですぐそばまで行け、宿泊施設も整っている。

元は日本風の建物だったであろうが、今はすっかり中華風に変わってしまっている。


その大きなお寺さん(観化堂)に廣枝音右衛門海軍巡査隊長とその妻であるふみ夫人が神として祀られている。

御位牌にはこう書かれている。
「天昇院法眞活道居士神位」
「浮蓮院台譽妙往清大姉神位」
傍に、もうひとつ
「 護国の神と祀られた故廣枝様に捧ぐ
九千萬の民の命はつきるともすめらぎの国ゆ
るぎべからず (故城戸咲朗詠)」
「南庄郷獅子頭山上の権化堂に不滅の御霊と鎮まりまさむ
(水に咲く花詠)」
書かれて置かれている。
廣枝音右衛門がどれほど慕われていたかを物語るものであると思います。
雅ちゃんこと游雅亭さんのおかげで、今回この獅頭山に何の苦労もなく行くことができました。
雅ちゃんは、その前に二回も確認のために行ってくれたそうです。
感謝、ありがたいの言葉のみしかありません。
多謝
下記の著作より参考及び引用させていただきました。
「台湾と日本 交流秘話」 (許國雄 監修名越二荒之助・草開省三編著 展転社 平成八年刊)
「捏造された日本史」(黄文雄 日本文芸社 平成九年刊)
「台湾は日本人がつくった」(黄文雄 徳間書店 平成十三年刊)
「日本人が台湾に遺した武士道精神」(黄文雄 徳間書店 平成十一年刊)
副店長さん二名様で来店。
Sさん来店。
ドンチャン。
記憶あり。
サルよりマシ。
しかし、何度も書くようにどうして台湾の人たちと朝鮮の人とはこんなに違うのでしょうか。たった、十五年の差なのですが、大きな差となっているようです。まあ、親日的といわれている台湾も我国の統治時代とその後の統治時代では大きく差があります。そのおかげで、親日、反日入り乱れているようです。台湾のマスコミは戦後に支那から逃げて来た外省人の影響力が強く、その多くが反日というか、親支が多いそうです。これからは、支那の甘い言葉にだまされた台湾の人々が増えてきそうです。