コピペ職人小名木善行氏の「台湾霧社事件と和の心」に見る嘘

コピペ職人小名木善行氏の「台湾霧社事件と和の心」に見る嘘
7月20日木曜日晴れ 8月7日一部追記
下記はコピペ職人の愛国商売人である小名木善行氏の「台湾「霧社事件」と和の心」と題したブログです。

<台湾「霧社事件」と和の心
高砂義勇隊
台湾で起こった霧社事件、それは日本が統治した台湾における最後にして最大の抗日運動でした。
そしてその事件によって、霧社事件を起こした人々は、最大の親日派となっていったのです。
昭和5(1930)年のことです。
台湾で「霧社事件(むしゃじけん)」というできごとがありました。

日本が台湾を統治しはじめたのが、明治28(1895)年ですから、統治開始から35年目のできごとです。
実はこの事件が、台湾での最大にして最後の抗日事件でした。
事件のきっかけとなったのは、日本人の警察官が、台湾原住民の固有の文化を無視した生活指導を行ったからとか、材木を担いで運ばせるなど重い労務を課したことなどであると言われています。
実際には、これといった明確な大きな事件があったということではなく、小さいストレスの積み重ね(人間関係においては、小さなことが大きなことです)が背景となっていました。

10月7日、タイヤル族の村落酋長の息子のタダオ・モーナが、村での結婚式の酒宴の場に、たまたま通りがかった日本人の警察官、吉村巡査を宴席に招こうとして、巡査の手を取りました。

言葉が通じません。
吉村巡査は驚いた。

後日の調書によると、このとき吉村巡査は、
「其ノ不潔ナル宴席ヲ嫌ヒ、拒絶セントシテ、握ラレタル手ヲ払ヒ」、手にしたステッキでモーナを2度殴打してしまいました。
結婚式の祝いの席なのです。
これを侮辱と受け取った現地の人たちは、怒りました。
そして吉村巡査を袋だたきにしてしまったのです。

気持ちは、よくわかります。
その場に居合わせたら、私も一緒になって吉村巡査を殴ったかもしれません。

けれど一方で、日本の警察は怖いです。
事件への報復をおそれた村人達は、その恐怖から、先手をとって蜂起しました。
20日後の10月27日には、タイヤル族のリーダーの一人であるモーナ・ルダオを中心として、六つの村から1,200人も人たちが出て、霧社公学校で行われていた運動会を襲撃してしまったのです。

この襲撃で、日本人だけ、140人が殺害されてしまいました。
一方、このとき現地の警察にはタイヤル族出身の警察官が二人いました。
けれどこの二人は襲撃には参加せず、それぞれ自決されています

台湾総督府は、やむなく軍を動員し、蜂起に参加した村々へ鎮圧を開始しました。
そして陳圧行動の結果、700人ほどの抗日タイヤル族が死傷し、500人ほどが投降しました。

この事件によって、台湾総督府では、翌昭和6(1931)年1月に、台湾総督、総務長官、警務局長、台中州知事が引責辞任しています。

そしてこのとき日本政府は、反乱を起こしたタイヤル族よりも、日本側関係者に対して、過酷とも言える厳しい処罰を行っています。

さらに日本政府は、台湾総督府の人事を作新し、台湾総督府内にあった現地の人々に対する差別的な政策や行動を行う者をすべて更迭し、台湾人を日本人として、皇民として、等しい地位におくことを理解する者だけを総督府に配置します。

そしてさらに、霧社事件の現場となった霧社村や、一部の住民が移住した清流部落には、莫大な国費を割いて大規模な水田の開墾事業を起こし、さらに農業指導によってこの地の農業生産性を劇的に向上させ、住民らの生活を以前よりも、より一層豊かなものにしたのです。
また、この事件をきっかけに、台湾人であっても、国家に忠誠を示した者は、日本人・台湾人の区別なく顕彰しました。

略)

実は、勇名を馳せた高砂義勇隊の高砂(タイヤル)族こそが、この霧社事件のときの霧社村の住民達だったのです。
一説によれば、霧社事件における山岳戦で、タイヤル族がとても強かったため、軍が高砂義勇隊の創設を着想したとも言われています。

略)

日本は、大東亜戦争の末期に、台湾総督府を通じて、義勇隊を募集しました。
この志願には5000人もの人が応募しています。
選抜から外された人達の多くは怒り、悔しがり、涙を流し、血判書まで出しています。
略)
戦後、台湾を統治した蒋介石・国民党政権は徹底的な日本否定を行いました。
そして「霧社事件」を、「日本の圧政に対する抗日運動をした英雄的活動」と讃え、蜂起の指導者たちにも「抗日英雄」の称号を与えました。

そしてさらに、霧社にあった日本人の殉難記念碑を破壊し、蜂起の参加者らを抗日英雄として讃える石碑まで建てたのです。

略)
ならば、事実を正しく再検証し、その「人としての心」をもって、人の国家を自ら手で築くのは、支那なら支那人、韓国なら韓国人の仕事です。
略)>

http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-1664.html

http://megalodon.jp/2018-0603-0905-00/nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-1664.html

あいかわらず最初に結果ありきでコピペだけで検証も何もせずに書いている愛国コピペ商売人のねずさんこと小名木善行氏である。
ざっと読んだだけでも嘘が満載である。

まず、霧社事件を<実はこの事件が、台湾での最後の抗日事件でした。>と書いているが嘘である。

霧社事件より後の昭和七年に当時の大関山駐在所付近の檜谷(海抜三千三百メートル)でイカバン蕃社の頭目ラマタセンセン(ブヌン族)が首謀で巡査二人と警丁一人を殺害した。
翌八年、前年の大関山事件の尾を引いてトコバン社のブヌン族一派が逢坂駐在所を襲撃、土森巡査部長ほか巡査の家族三人を殺害し、一人を負傷させた。

そして、何よりも半年後に第二霧社事件があった(後述)
第二霧社事件は小名木氏が書くように我が国政府が霧社事件後温情示したわけではないことをよく表している。

<このとき現地の警察にはタイヤル族出身の警察官が二人いました。
けれどこの二人は襲撃には参加せず、それぞれ自決されています。>

これは嘘である。
花岡一郎ことダッキスノービン、花岡二郎ことダッキスナウイ(ふたりは兄弟ではない)とも襲撃に参加しています。そのことは当時の朝日新聞の記事よりもあきらかです。

スキャン 58 のコピー  スキャン 60 のコピー2

ましてや、自身もその現場に遭遇し九死に一生を得た二郎の妻であった初子(オビンタダオ)の証言もあります。

<夫が当直だったのだ。まさか、二郎も・・・・。夫が蜂起に加担するとは思いもよらないことだった。
着物の裾をまくるようにして、自分の官舎に飛び込んだ。一郎と二郎がいた。一郎の家族もいた。一郎はすでに警察の服を着ていなかった。二郎は制服のままだった。
略)
二郎と一郎は、山の男も交えてぼそぼそと何か相談していた。
「人止関なんか陣地を構えてもどうにもならん。山にこもるしかないぞ」
一郎の声だった。初子は口を挟まなかった。初子は夫のすることに口出ししたことがない。山の女はみんなそうだった。二人が、壁に遺書を残していたことは後で知った。

スキャン 60 のコピー最初に「花岡両」とあって、次のように記されていたという。

我等ハ此の世を 去らねばならぬ
蕃人のこうふんは 出役の多い為に
こんな事件に なりました
我等も蕃人に捕らはれ
どふすることも出来ません
昭和五年拾月拾七日午前九時>
「台湾・霧社に生きる」P九一〜九二

この遺書のことで、小名木氏は蜂起に参加しなかったと書いているのであろうか。

スキャン 52 のコピー<一郎が「酒と縄をもて」と言った。それが何を意味するのかすぐにわかった。それから一郎の家族と山に入った。藪に入るときに、部落を振り返った。これが最後だと思って、自分の家のある方を見つめた。二郎が「早く行け」と背中を叩いた。二郎も一緒だと思うと、少しは気が楽になった。
略)
二キロほど入ったあたりで、おばが「ここだ」というと、皆は歩くのをやめた。足が萎えて立っていられなかった。湿った枯葉の上に腰を下ろした。
あたりを見回っていた一郎が、もう少し上まで行こうと言った。死に場所まで慎重に見極めるところが一郎らしかった。
この山は、ホーゴからみると椀を伏せたように形がよかったので、小富士と呼ばれていた。そのほぼ頂に近いところまで登り詰めた。頭の上には大きな木が枝を張り巡らしていた。
これから死ぬんだという思いと、あれから何も食べていないなあという空腹感が同時にあった。こんな時にも腹が減るのかと、不思議だった。
略)
翌二十八日の午後は、みんなで麻縄をなった。昼の間にそれぞれ自分でぶら下がる枝を選んだ。初子が選んだ木を見て、おばが言った。
「オビン、そこは暑いよ。朝日が真っ先に当たるよ」
死んでもやっぱり暑いということがわかるのかと思って、別の枝に移ると、おばが頷いた。
ひとかかえもある大木の幹が目の前にあった。セイダッカは木から生まれたから、木に還るんだと、昔母が話してくれたことを思い出した。
イワリノーカンの歌が始まった。父の姉で、初子のおばであり、花子の実母である。
山の民の歌は、今の歌のように楽譜や歌詞があるわけじゃあない。その時々の思いを歌にして唄う。嬉しい時は、楽しい歌になる。恋の歌は切ない気持ちになる。今イワリノーカンが唄っている歌は、悲しい歌だった。胸に染み入るような悲しい気持ちになった。
「お母さん、お母さん」
と天国の母に呼びかける。
「私たち一同は、これから貴女のもとに参ります。もう二日も何も食べてません。お弁当を持って迎えに来てください」
おばが唄うとみんながそれを唱和する。それらの声が樹間にこだまして、まるであの世と言葉を交わしているようで、初子は心細くなっていた。>
「台湾・霧社に生きる」P九三〜九五

このように花岡一郎、花岡二郎は霧社事件において蜂起蕃の一員として戦った。だから花岡一郎、花岡二郎は 台北の忠烈祠に抗日闘争の勇士として祀られているのである。
https://zh.wikipedia.org/wiki/忠烈祠_(臺灣)

(写真はすべて「台湾・霧社に生きる」より)

<そして陳圧行動の結果、700人ほどの抗日タイヤル族が死傷し、500人ほどが投降しました。>

<日本政府は、反乱を起こしたタイヤル族よりも、日本側関係者に対して、過酷とも言える厳しい処罰を行っています。>

<霧社事件の現場となった霧社村や、一部の住民が移住した清流部落には、莫大な国費を割いて大規模な水田の開墾事業を起こし、さらに農業指導によってこの地の農業生産性を劇的に向上させ、住民らの生活を以前よりも、より一層豊かなものにしたのです。>

この小名木というクズコピペ職人は平気でこういう嘘を書く。
日本政府が反乱を起こしたタイヤル族よりも、日本側関係者に対して、過酷とも言える厳しい処罰とは一体何を指すのであろうか。
台湾総監石塚英蔵の更迭のことであろうか?
では、蜂起した蕃(部落)の者は男だけでなく文字どおり女から子供の首にまで懸賞金をかけ未蜂起の部落のものに日当まで払い競って首を狩らせたことや、投降した五百人のうち二百人以上が殺された我が国の警察が絡んでいるとも言われている第二霧社事件のことをどうして書いていないのか。
当時の警官の月給が数十円の時に蜂起した蕃に対して懸けられた賞金は下記のとおりである。

<頭目又は勢力者を馘首セる者            金二百円
蕃丁を馘首セる者                  金一百円
蕃婦を馘首セる者                  金三十円
幼児を馘首セる者                  金二十円>
「霧社に生きる」p一九二

結果、届けられた首が八七個。そのうち女性や子供のものが五十五もあるのである。
元々高砂族の人たちに首を狩ることを禁止してきた我が国政府が、首を狩ることを奨励し、賞金までかけたのである。
そして、味方蕃となったものに褒賞として霧社の土地を与え、遺族には遺品一つ渡さなかった。

二次霧社事件第二霧社事件とは、霧社事件から半年後の翌年昭和六年四月二十五日に二つの仮設施設(蕃社)に収容されていた蜂起した部落の生き残りである「保護蕃」を同じ高砂族のタウツア社(タウツア社は反乱側と対立しており、味方蕃として日本に協力した。)が襲い生存者のうち二一六人が殺され、生存者は二九八人※1(二百八十二名※2)となった。
その蜂起蕃生存者に対して、強制的に川中島と呼ばれる場所に移住させた後も蜂起参加者への警察の摘発は続き、反乱に与しなかった霧社セデック族各社に対しても、「反乱協力者」の摘発は行われ、摘発者三十八名全員が昭和七年三月までに留置中に行方不明と言う。
その中には、花岡一郎の妻であった花子の姉婿にあたるワリステウスも入っている。ワリステウスは蜂起に加わらなかったバーラン社の人間であるが、事件に関与していると思われ処刑された。
「台湾・霧社に生きる」P一一三参照
※1=ウィキペディア
※2=「台湾・霧社に生きる」p一五六

<男達が次々と警察に呼び出されたことだ。事件の捜査は発生から半年を経ても、なお終了していなかった。蜂起参加者を根絶やしにするという初期の目標は、川中島に移住してのちも貫徹された。そして、呼び出された男達は二度と戻ってこなかった。>
「台湾・霧社に生きる」P一二八

<人々の生活が落ち着きを取り戻した昭和六年十月十五日、帰順式が挙行されることとなった。山の人々が日本の支配に服することを宣言するために行う式を帰順式と言った。「霧社蕃」は明治三十九年に帰順式を行っていたが、この度反抗を企てたので再び帰順式をやり直すのである
代表として男子八十三名と女子二十三名が、早朝川中島を発って埔里に向かった。安達警部補が引率して行った。しかし、このうち男子二十三名はそのまま埔里の留置場に収容されてしまい、残りの人は呆然とした姿で川中島に帰ってきた。帰順式とは名目で、蜂起に参加した疑いがあるものを一斉に逮捕する口実だったのである。
この間に逮捕・監禁されたセイダッカの男は四十名近くに達したが、全員が二度と家族の顔を見ることはなかった。記録には「獄中病死」とされているそうだが、みんなは処刑されたと信じている。
略)
それに追い打ちをかけるように、自分たちの故郷の村が、「味方蕃」に褒賞として分配されたことを知った。彼らは土地が肥沃な「霧社蕃」の土地をずっと以前から嫉ましく思っていたのだ。
ホーゴ社には「タウツァ蕃」が移住してきて、桜社と称した。今の春陽村である。
これで初子達が故郷の村や畑に帰る可能性は完全に絶たれた。
事件のことはもとより、かっての故郷のこともいっさいがタブーになった。人々は、家の中でも外でも堅く口をつぐんで暮らすようになった。ここに生まれ、育った子供達が自らの民族のたどった運命を知るのは、日本の敗戦後もずっと後のことである。>
「台湾・霧社に生きる」p一三〇〜一三一

川中島に移ってからもこのように霧社事件の追求があり、結果として多くの部族の男たちが殺された。
殺された男たちの遺骨はのちに針金で縛られた状態で発見されている。

<そしてさらに、霧社事件の現場となった霧社村や、一部の住民が移住した清流部落には、莫大な国費を割いて大規模な水田の開墾事業を起こし、さらに農業指導によってこの地の農業生産性を劇的に向上させ、住民らの生活を以前よりも、より一層豊かなものにしたのです。>

この様に書くが、強制移住させた川中島が結果として米作などに向いていたからといって、下記の移住のさせ方がコピペ職人の小名木氏がいう「反乱を起こしたタイヤル族よりも、日本側関係者に対して、過酷とも言える厳しい処罰」になるのか?

<事件が収拾すると、ただちに移住の命令が下った。そして、移住先は霧社より西方へ数十キロ、能高郡北港渓右岸の、通称「川中島」だと知らされた。見知らぬ平地での生活、家族を失った悲しみに躊躇する間もなく、あわただしく「引っ越し」の準備が進められた。収容所さへも焼け出されてしまった初子達に「待った」はなかったのだ。
その間に川中島の付近に住む眉原社の頭目が挨拶にやってきた。みんなの不安を和らげるために警察が手配したものであった。眉原社は同じタイヤル族だが、セイダッカとは仇敵の間柄だった。それで、また日本の仕掛けた罠にはまるのではないかという不安が生き残りのものを覆っていたのだ。
五月五日の午後になって、「翌朝出発」との最終命令が出た。その日はパーラン社など未蜂起の集落からは親類のものが続々と訪れて別れを惜しんだ。初子も友人から耳飾りや衣類を選別にもらった。
その夜は眠れぬ夜を過ごした。これで、霧社の山ともお別れになるのである。それは父や二郎との別れも意味していた。彼らの遺骨、遺品などは一切初子たちに渡されていなかった。
午前七時、霧社分室前に集合した。生き残った者が、一部の傷病者を除いて全員集まった。総勢二百八十二名。蜂起前の五分の一に減っていた。見知った者の生存を確認しても、彼らに朝の挨拶を交わす余裕もなかった。
三輪警務部長の訓示を聞いた後、七時三十分、ふた手に分かれて出発した。
略)
初子は、手荷物一つで山を去る自分達が惨めで、下を向いて歩いた。
マヘボやボアルンなどでは、一部焼失を免れていた家屋をみんなそれぞれの持ち主が焼いて出てきたという。二度と戻らないという決意であった。霧社から眉渓までは徒歩である。十数メートルおきに銃剣をつけた警官が立って、逃亡や他部族の襲撃に備えていた。そのものものしい警備に口をきくものはなく、みんな黙々と歩いた。
略)
無情の雨が女や子供達の列に降り注いだ。汗が冷え、悪寒が襲った。
巡査が「着いたぞ」と叫んだ。五十キロの道のりを一日でやってきたのだ>
「台湾・霧社に生きる」P一二二〜一二六

つまり、川中島に強制移住させられた生き残ったセイダッカの人々は少数の男性と婦人と子供達だけである。約三百人のセイダッカの人々に対して監視についた警官は五十人である。
この状況について柳本氏は著書に下記のように書いている。
<家族の柱、部族の柱が欠落した集団に希望を失い、村では自殺する人が相次いだ。マラリヤで次々と家族が欠けた。彼らはそうした中で多感な少年期を過ごした。>「台湾・霧社に生きる」P二三九

コピペ職人の小名木氏は下記のようにも嘘を書く
<実は、勇名を馳せた高砂義勇隊の高砂(タイヤル)族こそが、この霧社事件のときの霧社村の住民達だったのです。>

<この志願には5000人もの人が応募しています。>

まず、この小名木氏は高砂族=タイヤル族のような書き方をしているが高砂族は台湾に住む原住民の当時の総称であって、決してタイヤル族のことを指すのではない。タイヤル族は広い地域に住み、原住民の人口としては二番目であるが、四千名ともいわれている高砂義勇隊それが全てタイヤル族ではない。アミ族、パイワン族、ブヌン族もいる。ましてや、霧社から川中島に強制移住させられたのは約三百名(二九八名=「高砂族に捧げる」)であり、現実には七十戸の川中島より二十数名の若者が志願して、生きて帰ってきたのは十名に満たないものだけであった。(「台湾・霧社に生きる」)霧社事件の時の住民はあくまで高砂義勇隊のごく一部である。
たとえば、米川信夫氏(民族名ワリスピホ)は第二回高砂義勇隊に志願しているが川中島からは三人のみ、米川氏のみ生還した。
前田規夫氏(民族名パナンナウイ)第六回義勇隊に志願しているが、川中島から四人のみ志願し三人が生還している。

米川信夫 58 のコピー 前田規夫 59 のコピー

応募が五千名ではなく、高砂義勇隊が数千名であり、応募は当然もっと多い。

事実を歪めて、感動的に書き人を騙すのはこのコピペ職人である小名木氏の得意技のひとつである。

また小名木氏は下記のように書く。
<戦後、台湾を統治した蒋介石・国民党政権は徹底的な日本否定を行いました。
そして「霧社事件」を、「日本の圧政に対する抗日運動をした英雄的活動」と讃え、蜂起の指導者たちにも「抗日英雄」の称号を与えました。
そしてさらに、霧社にあった日本人の殉難記念碑を破壊し、蜂起の参加者らを抗日英雄として讃える石碑まで建てたのです。>

霧社事件殉難殉職者之墓 58「霧社にあった日本人の殉難記念碑を破壊し」と蒋介石政権が破壊したと小名木氏は書くが、この碑を破壊したのは蒋介石政権ではなく「台湾省公路局第六工務段」の単なる一職員の外省人である。
そして、小名木氏の書く「霧社にあった日本人の殉難記念碑」とは「霧社事件殉難殉職者之墓」と刻まれていたように「墓」であり「記念碑」ではない。墓であったから壊されずに残ったのである。これについては慰霊碑の謎として「台湾・霧社に生きる」には下記のように書かれている。
<劉瑞源は、日本に留学経験のある平地人。七十歳で、日本語は完璧。光復後、土木技師として長く工務段に勤めていた。
「倒したのは、工務段の者です」と断った上で、まず消えた慰霊塔と付近の様子をボールペンで描き始めた。思案するということがない。記憶は極めて鮮明であった。毎日毎日、その慰霊塔を見ながら事務所に通い、作業を進めていたという。
「それで、誰が潰したのですか。どこからか指示があったのですか」
私は耐えられずに聞いた。
「外省人ですよ」
「外省人?」
「ええ、あの頃、作業員の中には外省人の運転手がいましてね。その男が倒したんです」
「男というのは、その人が個人的にという事ですか」
「そうです。個人です」
「どこからの指示でもない?」
「ええ、男が勝手にやった事です」
「どうして?」
「田中内閣ですよ」
思いがけない言葉が出てきた。田中内閣が原因なのか。
「日本が中国と国交を結んで、それで台湾と断交するという事件があったでしょ」
「ええ、そうなると、一九七二年ですね」
「ええ、とにかくあの時、田中は裏切り者だって、新聞で大騒ぎだったんです」
台湾に来て知った事だが、ここでは田中角栄という人物は大悪人になっている。中華民国、蒋介石の恩義(対日賠償を放棄した)を忘れて、中国と手を結んだ人物として頗る評判が悪い。
「で、それと霧社事件とどういう関係があるんですか」
「関係なんかないですよ。日本のものだったらなんでもよかったんですよ。自分で塔にロープを括り付けて、ジープでガーンと引っ張ったんです。石は積んであるだけですから、ひとたまりも無い。ドーンと大きな音を立てて倒れたんです」
「見ていたんですか」
「ええ、みんなの見ている前で。あっという間で止める暇もない」
劉氏は大変なことをしでかしたと思ったが、周囲には男を非難する声はなかったという。反日ムードが一挙に高まっていた時期だからである。
「じゃ、七十二年まであの慰霊塔は残っていたんですね」
「そうですよ。完全に残っていました。あの周辺は桜台と呼ばれて、ちょっとした公園みたいでした」
「それ以前に、潰そうという話はなかったんですか」
「ありません。聞いたことがない。あれは墓ですから。誰も触ろうとする人はいませんよ。山の人でもそう言う人はいなかった
困ったのは工務段である。日本人の墓であるとはいえ、公共の建築物を許可なく倒してしまった。全てを撤去してしまうことも憚られた。そこで、残った台座を利用して「涼み台」に作り替えてしまった。
略)
慰霊塔を倒したのは、政府でもなく、山の人でもなかった。日中国交回復に怒った一人の外省人の行為であった。私はほっとした気持ちになって、売店でビールを飲んだ。>
「台湾・霧社に生きる」P二三六〜二三九

一九五三年に「霧社抗日記念碑」が建てられ、「霧社事件殉難殉職者之墓」が倒されたのは一九七二年である。そして「霧社抗日記念碑」の下には日本が霧社事件後虐殺した霧社の青年たちの遺骨が足と足を六番線とよぶ太い針金で縛られた状態で、大東亜戦争が終わり何年も経ってから霧社の警察署の前で支那に備えた防空壕を掘っていたら見つかり、その遺骨が埋葬されている。
何よりも「抗日記念碑」を建てたのは蒋介石政権ではなく、当時の仁愛郷長であったオビンタダオの夫・ピホワリスである。彼自身、蜂起したホーゴ社の出身であり、事件の惨禍の中を逃げ惑い九死に一生を得、両親をはじめ知人の多くを失った。

小名木氏は霧社事件の原因を
<事件のきっかけとなったのは、日本人の警察官が、台湾原住民の固有の文化を無視した生活指導を行ったからとか、材木を担いで運ばせるなど重い労務を課したことなどであると言われています。
実際には、これといった明確な大きな事件があったということではなく、小さいストレスの積み重ね(人間関係においては、小さなことが大きなことです)が背景となっていました。>
<言葉が通じません。
吉村巡査は驚いた。>

この様に霧社事件の原因を書くが、部族ごとに言葉が違うとまで言われ初めての共通語が日本語であると言われる部族の言葉をその警官が喋れるかどうかはわからないが、少なくとも台湾における警察官は台湾が我が国に割譲された明治二十八年の三年後である明治三十一年(一八九八年)には判任文官、巡査、看守に対して「通訳兼掌制度」試験を行うようになっている。当たり前です。朝鮮半島でもそうであるが、言葉が通じないで統治をすることなどできるはずがない。
それ以外にも肝心なことが抜けている。
首謀者であったモーナ・ルダオの事である。
モーナ・ルダオについて公文書がある。
以下、「台湾軍司令部」より
<直ちにその原因調査が開始される。世上流布された叛乱の動機は虚実取り混ぜて大冊をなすほどであった。小学校建築の用材を運ぶのに肩に担がせた(蕃人の肩は弱い)とか賃金が安い不満。警察が他社の女を妾にしていた恨み、蕃人と巡査の不和説、日月潭工事再開による不安説、銃を官命により押収される時音頭をとったモーナルダオがその後の銃使用の不便から自社他社に面目を失した怨み、といった底辺の原因は山の如く指摘されている。
略)
果てしない論議は百家争鳴の状況を呈している。
しかし、そのいずれも蕃界ではよく発生する小さい紛争であって、今回のような大惨事には直結しない。よく思い出して見ると駐在所を焼いて巡査を殺して首を取ることは昔から繰り返し発生していたことである。ただ今回は不運にも日本人が運動会に集まっていたところを襲われたので死者が多くなったのっだ。
そして、原因はモーナルダオにあると思われる。この男は明治十五年の生まれであるから明治三十年の深堀大尉一行十四名殺しの頃十五歳である。明治三十九年に霧社蕃が投降、絶対服従を誓って許された時が二十四歳だった。明治四十四年にも霧社蕃が反抗して危うく取り鎮めた時、二十九歳で陰謀に加担している。大正九年と十四年にも、首謀者となって霧社蕃と付近の他社蕃合同させ、犯行を合図したが、発見されて未発に終わった事実もある。いわば札付きの反逆児なのだ。
過去の討伐に際してモーナルダオが戦死するか、処刑されるかしていれば、霧社事件は発生しなかったことであろう。無知な原住民は寛大に扱って教育すると言う理蕃方針の下で四十八歳まで生きていた男なのである。総督の公文書に「性凶暴傲慢ニシテ斗争ヲ能クシ十七・八歳ヨリ慓悍ヲ以テ付近蕃人間二名アリ」とある。彼にすれば俺は霧社地方の頭目だ。総督も日本人の頭目だし、東京にいる天皇とやらは大頭目だそうだが俺と同じ頭目でないかと考えていたようである。>
P二一一〜二一二
下記は同書に掲載されている霧社分室に備え付けのモーナルダオの身分帳

モウナルダオ 62 のコピー

 

札付きの反逆児であるモーナルダオが生きていたことが一番の原因なのです。

あと、蛇足になるが毒ガスを日本軍が使用した様に書く本もあるが、毒ガスは使用していない。催涙ガスである。
「台湾軍司令部」の著者古野直哉氏は山砲弾管理責任者であった陸軍砲兵大尉垣内八州夫(陸士三十期)の言葉を引用しながら下記の様に書いている。
<「毒ガスは使用したことがない。破壊の榴弾が主で、催涙弾(通称緑弾甲一号)は百発程使用した」と著者に語ってくれた。当時の写真を見ても軍警とも防毒マスクを誰一人持っていないことをみても、毒ガスを使用しなかったことは明らかである。しかし、それでは面白くない人は「日本帝国主義の軍事的虐殺・毒ガス使用」と書きたくなるらしい。>
「台湾軍司令部」P二〇九〜二一〇
ただ、この古野氏も著書に間違いがいくつかある。
花岡一郎、二郎の妻であった花子、初子について、姉妹と書いている(写真説明及びP二一〇)が、花子、初子は姉妹ではなく従姉妹である。花子の母親が姉、初子の父親が弟という姉弟である。

モーナルダオの遺骨が発見されたのは一九七〇年頃と書いている(P二二一)が遺骨が発見されたのは一九三四年であり当時の台北帝国大学文政学部土俗人種学研究室に置かれていた後医学部に移されたままになっていて、一九七三年になってそれがわかり遺族に返されモーナルダオの墓ができた。

台湾関係軍人軍属の方は下記のように多くの方がお亡くなりになっている。
以下「

陸軍軍人                    千五百十五人
海軍軍人                    六百三十一人
計                       二千百四十六人
陸軍軍属(徴用)              一万六千八百五十四人
海軍軍属(徴用)              一万千三百四人
計                     二万八千百五十八人
合計                      三万三百四人
(ウィキペディアでは軍属の犠牲者が二万八千百六十人となっているが、合計は三万三百六人ではなく三万三百四人となっている。)

これら大戦の犠牲者に対する処遇については、昭和二十七年四月に成立した日華平和条約によると「日本国と中華民国との間に戦争状態の存在の結果として生じた問題は、サン・フランシスコ条約の相当規定に従つて解決するものとする」とし大東亜戦争の時の台湾人の犠牲者について協議することになっていたが、敵であった大日本帝国側について戦った台湾人の犠牲者に日本国政府よりの弔慰金なり見舞金が支給されることを中華民国は拒否した。それは中華民国は軍閥戦争、国共内戦、対日戦争の総計数百万人に及ぶ犠牲者に一文も払っていなかったからである。初代の蒋介石が死去し、二代目の蔣経国が死去したのち、三代目の李登輝氏が総統に就任したのち我が国と台湾政府との間で見舞金問題の歩み寄りがあり、昭和六十二年九月に議員立法で「台湾住民である戦没者の遺族等に対する弔慰金 等に関する法律」が成立し、台湾人戦没者遺族等へ戦病死者と重傷者を対象に二百万円の弔慰金が支払われた。

しっかし、小名木氏も事実を再検証しなどとよく書くわ

どの口で言ってるのだ

流石はコピペ職人の小名木義行氏と感心

あほらし

 

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参考引用文献
「台湾・霧社生きる」柳本通彦著 現代書館 平成八年刊
「台湾軍司令部 1895〜1945」古谷直也著 国書刊行会 平成三年刊
「高砂族に捧げる」鈴木明著 中央公論社 昭和五十一年刊
「証言 台湾高砂義勇隊」林えいだい編著 草風館 平成十年刊
「知られざる東台湾」山口政治著 展転社 平成十九年刊

以下はコピペ職人小名木義行氏の嘘についての指摘を私なりにまとめたものです。

こんな奴の言うことを信じて一緒に昇殿参拝までするおめでたい連中も多いです。

アーレイ・バーク大将とコピペ愛国商売人ねずさんこと小名木善行氏

再び、ねずさんこと小名木善行氏についての疑問点

ねずさんこと小名木善行氏についての疑問点

駆逐艦「キャラハン」にみる海の武士道

青葉慈蔵尊 堀喜美子(喜身子)の疑問点および小名木善行氏について

廣枝音右衛門(広枝音右衛門)

台湾民政府の危険性

めちゃ暇
Mさん来店。
初めての女性の方二名様で来店。
お酒が好きなそうで、グイグイと召上る。
ドンチャン。

私もめずらしく記憶あり。
今日は猿でもエビでもない。