金容雲

どうした金容雲
9月7日月曜日雨◯
サピオ(SAPIO)八月号の特集は「韓国が日本に学べと言い出した」というものでした。その中に「韓国人よつまらぬプライドを捨て今こそ日本からも大いに学べ」と題した金容雲氏と柳舜夏氏との対談が掲載されていました。

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<柳 韓国で自国の批判をするのはとても勇気のいる事ですが、金先生はこのような企画に登場して大丈夫ですか?
金 ご心配ありがとうございます(笑)私は日本から学ぶべきことはきちんと学ぶべきだと考えていますし、韓国の未来のためにも、この場であえて苦言を呈することにしました。まず指摘したいのは、韓国人は文化や道徳、倫理などすべての面において「日本人より優れている」という思い込みがあるということです。
略)
金 もちろん、韓国人もGDPなど数字で比較できる国力は日本より下ということを理解しています。一方で韓国人は「日本は儒教的に劣っている」という朝鮮王朝時代の観念を引きずっています。その日本に植民地支配されたばかりでなく、今でも国際社会での位置付けは「日本より格下」です。そのため韓国では、この屈辱をいかに晴らすべきか、ということに執着し、日本から学ぼうという意識が希薄になってしまいました。
略)
金 韓国はセウォル号事件で何を反省したのでしょうか。あの時国家全体に危機管理意識が根付き、日本を始めとする国際社会から学ぼうとしていたら、MERSの拡散もここまで深刻になっていなかったかも知れません。
韓国でも日本と同様に二年前からMERS対策マニュアルが作成されていましたが、患者を診察した病院名の公表が遅れるなど 対応が後手に回りました。仮に日本で感染者が出たら、事後対応は徹底され、ここまで被害が拡大することはなかったでしょう。
略)
金 自国の弱点をきちんと理解した上で、他国から何かを学ぶことは恥ずかしいことではありません。韓国は「日本より優越でありたい」という意識を捨て、良き面を学び取ろうとする視野を持つべきなのです。>

SAPIO 二〇一五年八月号P十〜十一

DSCN4011 このように書いている金容雲氏は手元にある「醜い韓国人が醜い日本人に応える」(林永春著、萎求栄訳)というどうしようもないアホな本に序文を書いています。

以下引用

私はこれまで、日本人の歴史観というかその意識の貧弱さ、身勝手さをいく度となく繰り返し発言してきた。それは、日本人が本来的に歴史という厳粛な事実にうといのではなく、既成のエスタブリッシュメント(体制)の操作による結果だと訴えてきた。既成の体制は「学校教科書」などを通じて、日本人を歴史観の希薄で身勝手な人間に仕立ててきたのである。>

引用終わり

お前らがなと思わず言いたいこの序文だけで、金容雲氏という朝鮮人の程度がよく分りますが、この序文を書いた本を出版した会社というのは、売国奴であり職業詐欺師の吉田清治の「私の戦争犯罪」を出版した三一書房です。
DSCN4012 金容雲氏の別の著書「韓国人と日本人」(サイマル出版)には、下記のような記述があります。
<伝統的に、韓国は日本に対して防衛しか考えていなかった。万葉の詩人さえ、韓国侵略を夢みていたころ、新羅の詩人たちの関心は、いかにしてそれら倭人を防ごうかということにあった。
略)
これほど侵略され続けながらも、一度もこちらから侵略しなかったのは、その風土の条件によるものであろう。
しかも、韓国は、ひきつづき文化的な文物だけを日本に流している。なんとも不公平な交流もあったものである。
P二百六十七~二百六十九
そして下記のように二つの国の特徴を書いています。

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P二七一

そして、朝鮮人について下記のようにも書いてホルホルしています。
<戦う目的がはっきりと自覚され、各自に神風が湧くとものすごく強くなる。ペリーの黒船さわぎのあったとき、あまりにも驚いた江戸市民は「大平の眠りさますじょうきせん たった四杯で夜も眠れず」と自嘲し、また勇猛をもって名を知られた攘夷論者の本拠地である下関と鹿児島は、西洋人の威嚇砲撃で一夜にしてその主張を変えている。
一方、韓国では農民義勇軍が主核となり、大同江へ侵入したアメリカ軍艦シャーマン号を焼き払い(一八六六年)、また同年、江華島に来寇したフランス海軍を撃退した。一八七一年には、江華島でアメリカ海軍も撃退している。韓国大衆のこのしぶとさは、自覚された儒教の価値観がまったく国策と一致したためである。韓国民が神風を湧かせると死をもいとわないことは、前に説明したとおり、李舜臣水軍の奮戦に際しても発揮している>
P二百七十五

そんな日本人に併合された朝鮮人はどうなのでしょう。矛盾を感じないのでしょうか。

土地調査事業についても下記のように書いています。
<韓日合併、すなわち韓国が植民地化されたとき、日本人が韓国人の農土を収奪した方法が、証文を知らない農民の純真さを利用したものであった。それは「土地台帳整理」の名で知られる悪法であり、いまでも韓国農民の老人の呪の対象である。
だいたい、韓国の農土は、何代にもわたって耕されてきたものであり、村の者ならだれでも知っている所有権にたいして、べつにこれといった証文などというものがなかった。この弱点を知った日本人は、「証文を出せ!それみろ、ないだろう。じつはこれは、おれさまのものだ」と強弁をふるい、その後ろ楯を警察・憲兵がした>
P二百六十~二百六十一

土地調査事業についての朝鮮人のウソについては既に書きましたので、ここでは触れませんが、一九二七年に東京に生まれて、早稲田大学を四七年に中退後、南朝鮮に渡り、その後アメリカ、カナダの大学で学んだという金容雲氏ですらこの程度なのです。
そんな程度の朝鮮人をパネリストとして招いての講演などあまりにもアホ過ぎます。

何も無かった朝鮮半島に我が国は教育、治水事業を初めとした多くの土木工事などを併合後に行いました。
しかし、朝鮮人にとっては違うようです。

<それでも、現代科学技術を動員してやっと最近、画期的な治水工事がいくつか完成した。それは広い地域にわたる雄大な事業である。それに投入された莫大な経費・人員・重機の数量を考えてみるとき、韓国の地理的条件が、前近代社会においていかに治水工事をしにくくしていたかがわかる。
それと風土に備わった自然の復元力である。韓国人には当然、大きい工事を夢みず、じっとしていたほうがよい、という考えが産まれるのだ。実際、単位地域内において、住民を結束させる土木工事が、現代以前には皆無に近かった。昔からやっていた治水工事は、溜池がほとんどであったといっていい。その昔、百済の農民たちが日本でみせた水利技術の手並みは、ほとんどそれによるものであった。>
P八十九

韓国から日本に流入したものは、すべて文化的なものであるといってよい。文字も韓国からわたったため、その読み方も当然韓国式であった。現在でも、漢字の読み方は韓国とあまり違わない。
韓国式の読み方を知っておれば、日本式の読み方もたいてい推測することができるくらいに、両者は近い。
しかし、日本が韓国にもたらしたものは、血なまぐさい軍事侵略がほとんどであった。韓日合併以前の賃借対称表を作ってみよう。
韓国が日本に与えた影響
文献には残っていないが、稲作文化もたしかに韓半島からわたったものだが、それはさておき、
百済の文化伝達
文字、数学、天文、薬学、法制、土木、金属文化(銅の製錬)
壬応乱による文化の移入
朱子学、陶磁器、金属活字、科学
朝鮮通信使の文化移入

日本が韓国にくれたもの
史実としては疑問点が多いが、日本学者の主張する任那や神功皇后の侵略
倭冦
壬応乱、丁酉乱
韓国の植民地化>
P二百五十一~二百五十二

全人口の四割が奴隷であり、クソまみれの国を多くの優秀な人材、多くの日本国民の血税を注ぎ込み、近代国家にしたことなど微塵も覚えていないようです。
だいたいこの金容雲氏という朝鮮人自身が併合後たった十七年しかたっていない昭和二年(一九二七年)に東京で生まれています。
朝鮮人の渡航制限がされている時に、お得意の強制連行でもされてきたのでしょうか。
早稲田大学に入学し、昭和二十二年(一九四七年)に中退し南朝鮮に行っています。
この金容雲氏は我が国に二十歳まで住み、大学まで進みながらも我が国の恩恵を何も受けていないと思っているのです。
朝鮮人の恥、どうしようもないアホとしか言いようがない。

<この土地強奪は、欲しい土地があると丸太を打ち込み、測量をし、適当に証書をこしらえ、所有権を確立する。韓国経済史の専門家・崔虎鎮の文を引用しよう。
「土地調査事業のため、従来の現実的な土地所有者であり、耕作者であった大部分の農民は土地を失った。新しい契約によって地主と小作人の関係が成立した。・・・・・・所有地調査を申告主義によったため、所定の手続きを知らない数多くの農民は土地を失った。また共同所有をみとめなかったため、村落・門戸(家門)の所有地は、全部公有地に編入された。したがって、少数の知識層が土地を得る事ができた反面、大部分の農民は土地から離れていったのである」(韓国経済史概論)
ここれいう知識層とは、大部分は日本人であったことはいうまでもない。このようにインチキ、それこそ子供だましにあらぬ「朝鮮人だまし」が通じたのは、「いまどき、こんな純真な人がいるのか?」と日本の新聞が感服した、韓国人の昔ながらの生活感覚であった>
P二百六十一

土地政策については何度も書いていますが、併合時代に朝鮮より我が国が不当に土地を奪ったことなどありません。

福沢諭吉翁について
<福沢諭吉が朝鮮政府と兪吉濬を不誠実となじったのは、日本の尺度をもってのことである。韓国人の目から見たとすれば、そういう福沢こそが心の狭い者ということになる。そして信じあった男同士のしたことを、性急にも、その内容がどうであるかも知らずいいふらして歩くのと、井戸端会議をしているお内儀さんがたとどこがちがうのか。
なぜそのとき、福沢は金玉均に返せと言わず、兪吉濬にそういったのであろうか?
理由は簡単である。そのとき、すでに金玉均は殺されていたためである。日本の奸計によって金玉均の屍体は八つ裂きにされ、またその名誉は福沢によってけがされている。信義を守っていないのは福沢のほうではないか。
金玉均が失脚したのは、日本の政府が、約束しておいた借を拒否したためであった。韓国のことわざに、「木に登らせておいてから木をゆする」というのがある。金玉均をして木に上らせたのは日本政府であり、またゆすぶり落としたのも日本であった。
略)
日本に亡命中、日本政府の策動で上海にわたり、刺客の手に倒れた。屍体は日本領事館の意図で、ついに敵・韓国守旧派の手にわたされ、ソウル郊外で八つ裂きにされた。
日本に欺かれ殺され八つ裂きにされた金玉均が、地下で日本人に信義伝々されたときいたら怒るだろうか?否、彼は笑うであろう>
P二百六十三~二百六十四

このような愚かな朝鮮人に何を言っても無駄なのであろうが、金玉均の行方不明であった妻子については、我が国は探偵を送ってまでその捜索をしています。明治十七年(一八八四年)十二月、当時東学党の乱を鎮圧中の日本軍が忠清道沃川近傍で金玉均の妻と女子を偶然発見して保護しています。
金玉均の遺髪が東京本郷の駒込真浄寺と青山外人墓地にあるのはどうしてか考えた事があるのであろうか。
クーデターに失敗した金玉均は、刺客から逃れるため我が国国内を北海道から小笠原まで約十年転々とし、明治二十七年(一八九四年)三月二十八日に騙され上海に連れ出され刺客の手により暗殺されます。その後、遺体は朝鮮に送られ寸断され、首と四肢は獄門にさらされたのを、甲斐軍治が夜陰にまぎれて、金玉均の梟首台に近づき、遺髪を持ち帰ったからであり、五月二十八日には、浅草本願寺で金玉均の英魂を鎮める盛大な葬儀が営まれました。
朝鮮併合後、明治天皇は、金玉均の遺族に金一万円を下賜せられた。

また、兪吉濬は併合後男爵を授けられている。
それ以外でも、纏足と宦官について
<纏足・宦官はともに、体に不自然な手術をすることであるが、韓民族の場合、それが女性側にはなく、男性側だけにあったというのがおもしろい。靴下が強くなるずっと前から、女が強かったのだ!
日本では二つとも、採用されることがなかった。第一にあげられる理由は、それほど爛熟した王朝文化をもたず、第二に、たぶん騎馬民族的なサムライ(武)の文化をもったためであろう。>
P百二十九

我が国は、小中華を自認し誇った朝鮮と違い、日本民族として生きてきた。
漢字を我が国に取り入れた後、仮名、カタカナにより独自の文字を作った。
我が国の国史は我が国のものであるが、朝鮮において国史とは支那のものであった。
それと同じように我が国では考えられもしない宦官などという風習を喜んで取り入れたのが朝鮮人である。
宗主国に事大し生きて来たのが朝鮮である。
朝鮮民族の名前がモンゴル風になったり満州風になったりしたのは宗主国の支那に合わせた為である。
だから、我が国が併合した時には、日本風の名前を名乗りたがったのである。
もし、私の言っている事がウソだというのであれば、戦後すぐにどうして朝鮮名を名乗らなかったのか。
いまでも、在日朝鮮人が日本名の偽名を名乗って平気なのはどうしてか。
朝鮮人犯罪者を朝鮮名併記で報道すると、差別だと騒ぐ朴一氏のような発言がどうしてあるのか。
朝鮮人は自分の民族名に誇りがないのか。
厚顔無恥にもほどがある。

あほらし

サピオ(SAPIO)平成二十七年八月号
「醜い韓国人が醜い日本人に応える」(林永春著、萎求栄訳 三一書房 平成七年刊)
「韓国人と日本人」(金容雲 サイマル出版会 昭和五十八年刊)

今日は酒は飲まず。
猿でも海老でもない。