今田真人の著書「吉田証言は生きている」の違和感その二

今田真人の著書「吉田証言は生きている」の違和感その二
8月6日木曜日晴れ◯
吉田氏の著書の年月日について今田氏は

本に書いてある年月日は事実か
<だいたい、当時、書く時に相当部下と相談して書いているから、間違いないです。>
①P八十四

このように吉田氏が間違いないと今田氏に対して断言している年月日についての矛盾点。

吉田清治の著書「私の戦争犯罪・朝鮮人強制連行」によると、斉州島での、「慰安婦強制連行」は一週間にわたり、十人の武装した兵隊と憲兵に護衛された徴発隊によりおこなった。その徴発隊は島を縦横にかけめぐり、泣叫ぶ若い朝鮮人女性を狩りたて、片はしからトラックに積み込みこんだ。役得としてトラック上で強姦する兵もいたと書いています。
 場所は、帽子工場の女工から八人、貝ボタン工場で十六人、乾魚工場から二十七人、ソーセージ製造所から五十人、西帰浦の海女を五十人など合計二百五人を連行するなどナマナマしい情景が活写されている。
城山浦の貝ボタン工場での連行の様子を下記に引用します。

<女工たちは竹かごの中から貝殻を、手早く鉄わくの中へ入れ、足踏み機械を操作すると、一銭銅貨より小さなボタンを同時に十個ばかり作っていた・・・・隊員たちがすばやく工場内の二か所の出入り口を固め、木剣の先を突きつけて、女工たちを起立させた。
「体格の大きな娘でないと、勤まらんぞ」と山田が大声で言うと、隊員たちは笑い声をあげて、端の女工から順番に、顔とからだつきを見つめて、慰安婦向きの娘を選びだした。
 若くて大柄な娘に、山田が「前へ出ろ」とどなった。娘がおびえてそばの年取った女にしがみつくと、山田は・・・・台をまわって行って娘の腕をつかんで引きずりだした・・・・女工たちはいっせいに叫び声を上げ、泣き声を上げていた。隊員たちは若い娘を引きずり出すのにてこずって、木剣を使い、背中や尻を打ちすえていた。・・・・女工の中から慰安婦に徴用した娘は十六人であった。>
秦氏は吉田が、「昭和十八・十九の二年間で千人以上」(赤旗一九九二年一月二十六日)
「吉田さんらが連行した女性は少なくみても九百五十人」(朝日新聞一九九二年一月二十三日夕刊)
この非人道的行為による強制連行がおこなわれたのかどうか疑問に思い、一九九二年三月二十九日より済州島に渡り実地検証をしています。

当時、七十八歳の吉田に秦氏は連絡をとり「裏付けをとりたいので済州島の慰安婦狩に同行した部下の誰かを紹介して欲しい」と頼みましたが「本を書く時に二、三人に会って記憶を整理した」ことは認めたが「あちこちから聞かれるが、絶対に教えられない」と拒絶したそうです。
そのために秦氏は日付と場所が特定されている済州島・城山浦まで行き実地検証をおこなっています。
吉田氏の著書が一九八九年に翻訳されて南朝鮮(韓国)で出版された時に、その記述内容に疑問をもった済州新聞の許栄善記者が現地で調査し、一九八九年八月十四日付で同紙に著名入りの記事として下記のような内容の記事を書いています。

済州新聞の許栄善記者による一九八九年八月十四日の記事
<解放四十四周年を迎え日帝時代に済州島の女性を慰安婦として二〇五名を徴用していたとの記録が刊行され大きな衝撃をあたえている。しかし裏付けの証言がなく波紋を投げている。
(吉田著の概要を紹介)
しかし、この本に記述されている城山浦の貝ボタン工場で十五~十六人を強制徴発したり、法環里などあちこちの村で行われた慰安婦狩りの話を裏ずづけ証言する人はほとんどいない。
島民たちは「でたらめだ」と一蹴し、この著述の信想性に対して強く疑問を投げかけている。城山浦の住民のチョン・オクタン(八五歳の女性)は「二五〇余の家しかないこの村で、十五人も徴用したとすれば大事件であるが、当時はそんな事実はなかった」と語った。>
以上

 郷土史家の金奉玉氏は「一九八三年に日本語版が出てから、何年かの間追跡調査した結果、事実でないことを発見した。この本は日本人の悪徳ぶりを示す軽薄な商魂の産物と思われる」と憤慨している。
これだけで、吉田の著書の内容について全面否定に近いが、現地調査を行った秦郁彦日大教授も、海女の研究家でもある康大元氏(慶応大学出身)の通訳により城山浦の老人クラブ、四、五ケ所あった貝ボタン工場の元組合員など五人の老人と話し合って、吉田証言が虚構らしいことを確認した。
「何が目的でこんな作り話を書くのでしょうか」と、今は『済民新聞』の文化部長に移っている許栄善女史から聞かれ、私も答えに窮したが、「有名な南京虐殺事件でも、この種の詐欺師が何人か現れました。彼らは土下座してザンゲするくせがあります」と答えるのが精一杯だったと秦氏は著書「昭和史の謎を追う 下」(p四百九十八)に書いています。

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同じ著書で秦氏は続けて、下記のように記している。
くだんの吉田も何回か韓国へ謝罪の旅に出かけ、土下座したり慰安婦の碑を建てたり、国連の人権委員会に働きかけたりしているようである。しかし彼の申し立てには、本名や経歴をふくめ、他にも不審な点が多い。
たとえば
一)慰安婦狩の命令は西部軍→山口県知事→下関警察署長→吉田のラインで来たとしているが、関係者はこのような命令系統はありえないと否定する。依頼だとしても、済州島をふくむ朝鮮半島は朝鮮総督府と朝鮮軍の管轄管理下にあり、内地から出張しての狩りこみはありえず、もし必要があれば総督府が自身の手で集めるはずと述べている。
二)第一作である『朝鮮人慰安婦と日本人』(新人物往来社一九七七)には、四四年四月労報が初めて慰安婦狩りを手がけたと記述し、第二作「私の戦争犯罪・朝鮮人強制連行」(一九八三)の済州島行き(四三年五月)と矛盾する
三)第一作に四四年二月結婚とあるが、第二作には済州島行き計画は、死んだ「家内の日記」に書いてあったと記述している。

以上の事について私なりに説明を加えさせていただくと、

「朝鮮人慰安婦と日本人」(吉田清治著 人物往来社 昭和五十二年刊)より。
以下引用
< 十五、朝鮮女子挺身隊
昭和十九年
私は「朝鮮人女子挺身隊」の動員命令書を県庁の労政課で中村主事から手渡された。
略)
「慰安婦ですね。軍はどうして商売女をつかわんのですか」
「あんたはその方面にうといが、このごろのの遊廓は年増の女郎しか残ってないですよ。若い子はみんな産業戦士になって、赤たすきかけて軍需工場で働いてるんだから。朝鮮総督府の女子挺身隊は、大陸で兵隊さんに評判がいいそうですよ。若くて日本語がうまいから、クーニャンとかちがって、情がわくんでしょうな」
「労務報国会に、慰安婦の動員までやらせるようになったんですか」
「動員署は去年から、日本人の慰安婦の徴用をやっていますよ。実は課長が県内の事情を話して、こんどは朝鮮人を出すことで話がつきました。それで課長がこの動員は下関労報にと言いましてね」 >
②p百五十~百五十一

動員命令書
(注 原文は縦書き)
(県労政発第○号)
動員命令書
陸軍○○部隊の要請に基づき左記の通り労務動員を命ず
昭和十九年四月三日
山口県知事 ×××× 印
山口県労務報国会下関支部長 ×××××殿

一、皇軍慰問・朝鮮人女子挺身隊百名
一、年齢十八歳以上三五歳未満(既婚者にても可、ただし妊婦を除く)
一、身体強健(医師の身体検査及び花柳病検診を受け、診断書を要す)
一、給与 一個月金三十円也
     支度金として前渡金二十円也
     宿舎・食糧・衣服等を現物支給す
一、派遣期日 昭和十九年四月十日午後一時
一、集合場所 下関市細江町下関税関庁舎前
一、輸送指揮 陸軍○○部隊依託長谷川勇殿>
②p百五十一~百五十二

これが、同じ吉田氏の著書「私の戦争犯罪」になると下記のようになる。
<動員命令書
(注 原文は縦書き)
一、皇軍慰問・朝鮮人女子挺身隊二百名
一、年齢十八歳以上三十歳未満
一、身体強健なる者(特に花柳病検診を行うこと)
一、期間 一年
一、給与 一個月金三十円也
     支度金として前渡金二十円也
一、勤務地 中支方面
一、動員地区 朝鮮半島全羅南道済州島
一、派遣期日 昭和十八年五月三十日正午
一、集合場所 西部軍第七四部隊>
③p百一

このように吉田氏は
「私の戦争犯罪・朝鮮人強制連行」には一九四三年五月十五日に発令された軍の命令書の内容について、吉田の妻が当時(一九四三年五月十五日)の日記に内容を書き残したと書いている。しかし、第一作『朝鮮人慰安婦と日本人』では吉田氏は一九四四年四月三日付けの動員命令書により女子挺身隊として慰安婦を徴用したのが最初であり、結婚はその二か月前、つまり一九四四年二月になっている。御丁寧にその動員命令書もその著書に書かれている。
第一作である著書『朝鮮人 慰安婦と日本人』に
<動員部長として、私は朝鮮人の徴用には慣れていたが、慰安婦の動員命令だけは不満で腹立たしかった。私は朝鮮人の男に徴用をかける時は、炭鉱や戦地に送られて彼等がどんな悲惨な目にあうか知っていても、戦時下の労務動員だから仕方がないと考えることができた。もし朝鮮人の女を慰安婦でなく、本当に雑役婦としてなら、どんな危険な前線でも、どんな苦しい作業でも、決戦下の労務動員だと考えて平気で女の動員業務をやっただろう。私が朝鮮人の娘や女房に徴用をかけて軍の慰安所へ送る仕事がいやだったのは、朝鮮人の女がかわいそうだと思ったからではなく、この徴用が売春にかかわる仕事だったからだ。私は二月上旬に結婚して、まだ二か月しかたってなかったので、売春婦を不潔に思い、嫌悪感をもっていた」>と書いています。
②p百五十五~百五十六

吉田氏は新婚だから、売春婦を不潔に思った。それだけでなく、慰安婦=売春婦だから、それを集めるのはいやだと言っているわけです。

他にも
<男の「朝鮮人狩り」ばかりやらされている動員係の連中は、女の朝鮮人狩りははじめてだったので、おもしろがってよくしゃべった。>
②p百五十四

「私の戦争犯罪」の引用部分でも出てきた「山田」と称する部下に対して、
<「短気をおこして狩り出しはやるなよ。志願した女も恐れてやめたりしてめんどうになる」
「だいじょうぶです。今日は大きな声はださないようにしています」>
②p百六十

と、「朝鮮人慰安婦と日本人」では済州島での慰安婦狩りより一年も経っているはずなのに下関での慰安婦の徴用は「狩り出しはやるな」と命令しています。
同じ吉田氏の著書「私の戦争犯罪・朝鮮人強制連行」に書かれてている朝鮮人慰安婦の斉州島での、いわゆる「慰安婦強制連行」とは大きく違う。
ましてや、一年も前に斉州島で「慰安婦強制連行」をやったと書いているのである。

このような吉田氏の著書の時系列の矛盾点について、今田氏は一言も言及していない。

そして、「吉田調書は生きている」には西部軍司令部の「ゴム印」が押した命令書だっったのが、「朝鮮人慰安婦と日本人」では、陸軍○○部隊の要請に基づいた山口県知事よりの命令書となっています。

<もう丸暗記していますよ。この形式しかなかったんですから。その程度のありふれた形式なんです>
①p六十

と吉田氏は証言していたが、吉田氏自身の著書に記載された違う命令書が存在するわけである。

だいたい、西部軍司令部の公印に「ゴム印」を使うか?
「ゴム印」と吉田氏が言った時点で、今田氏は「?」と思って、問い直すのが普通のインタビュアーではないのか。

二名様来店。
二名様来店。

私は今日は酒は飲まず。
さっさと帰る。
サルでもエビでもない。