インドネシア残留日本兵・衛藤七男 元陸軍憲兵軍曹

7月5日日曜日雨△
今日は日曜日で河岸が休みなので、
<2015年4月22日、日本の安倍晋三首相は南ジャカルタのカリバタ英雄墓地で敬意を表した。安倍首相はインドネシア独立の英雄として英雄墓地に埋葬された日本兵、衛藤七男の墓に献花を行なった。>
と以前にニュースにあったこのインドネシア独立の英雄・衛藤七男氏について調べようと思って、ネットではニュース以外はほとんど掲載されていない。

手元にあるインドネシア日本人部隊関係の本でも、そのお名前は、
「東部ジャワの日本人部隊――インドネシア残留日本兵を率いた三人の男」 林英一 著
「帰らなかった日本兵 」長 洋弘 (著)
それと「インドネシア独立戦争に参加した『帰らなかった日本兵』、一千名の声―福祉友の会・200号「月報」抜粋集の三冊に掲載されているだけです。

エピソードとしては
<メダンに数日滞在したのち、クアラ・シンパンの村本英秀司政官の邸宅に身を寄せた岸山(勇あるいは勇次)は、そこで同じく特操出身の山本久勝曹長、憲兵隊出身の衛藤七男軍曹と合流し、スマトラ島北端のアチェを目指した。この時、村木司政官は、工作物資の中から、兵器、衣料、食料、文房具などを積んだトラック一台、乗用車一台、さらに金塊三本、ダイヤその他の貴金属宝石類と多額の軍票を与えたという。(本田忠尚著「バランと爆薬ースマトラ残留兵記」一九九〇年 西田書店p八五〜九〇)
ランサ北部の村落に着いた時に、岸山は島小太郎と変名したが、山本、衛藤とともに国軍の憲兵に拉致され、ロスウエの村に監禁されてしまう。この時、アチェ政庁勤務の諸戸末男や、プルラ三井物産社員の河田義久ら七人の知己を得る。
日本人はスパイであるから処刑しろと迫るインドネシア兵を前に、島は「ちょっと用がある」と言って彼らを部屋の中に招き入れ、「俺はこんなことができるんだぞ」と薄暗いところで、指の間からゆらゆらと煙を出して見せた。兵は驚き、島は一種特異な能力の持ち主と畏怖され、その噂を聞いたアチェ第一象師団長のフシン・ユスフ大佐の了解のもと、六月二日にアチェの「中野学校」を開校し、自らは校長に就任。他の日本人教官とともに、町の青年四十人に対し、歩兵の戦闘教練、無線機の扱い方、潜入、破壊工作、爆薬の扱い方、一般教養(英語、数学)を教え、起床、課業、休憩、就寝の時間と順番を決め、軍人勅諭五箇条のインドネシア語版を作るなど、日本軍さながらの生活を営んだ。
略)
楠木事件の発生によって、ロスマウエでは七十〜八十人、コタラジャでは百二十〜百三十人の残留日本兵が連行され、監禁された。しかし、フシン・ユスフ大佐に重宝されていた島、山本、衛藤の三人ならびにプシンド(社会党の青年部隊で武装団体)の顧問格として幅をきかせていた倉井徹、樋口修ら一部の残留日本人は監禁を免れた。((本田忠尚著「バランと爆薬ースマトラ残留兵記」一九九〇年 西田書店p一一九〜一三一)>

私は「東部ジャワの日本人部隊――インドネシア残留日本兵を率いた三人の男」 林英一 著p二八二〜二八四より引用

スキャン 16<戦犯・・・・・・元陸軍憲兵軍曹、衛藤七男の場合

衛藤七男 元陸軍憲兵軍曹 ヤコブ・エトウ 一九一九年(大正八年)四月二十四日生まれ 大分県出身 ジャワ島ボゴール 通訳・日系企業勤務 妻と子供四人
「私は終戦をスマトラ島のピマタンシャンタルで迎えました。我々憲兵が最も恐れたのは戦犯という言葉です。十月に連合軍が上陸してくるとイギリス軍憲兵将校が日本軍憲兵を呼び出し、戦争中の行為に対し、誰が関わったかを華僑に証言させ、首実検が始まりました。私は戦犯になれば銃殺になるだろうと思いました。一九四四(昭和十九年)にスマトラ島に上陸し、メダン、ピマタンシャンタルで警備任務に就きましたが、当時抗日分子や連合軍のスパイも多く、オランダ軍の捨てた武器を手にゲリラ活動もありました。抗日分子やスパイは逮捕し自白を迫りましたが、頑強な拒否にあって手を焼き、憲兵隊が処刑したイギリス人や中国人がいたことも事実です。
十月の終わり頃から戦犯になることを恐れた憲兵の多くが逃亡しました。楠正徳少尉(大阪府出身)、木村賢三兵長(出身地不明)ら数人が、マラッカ海峡のロスマエで漁船を乗っ取り、マレー半島に脱出を試みましたが、途中インドネシア独立軍に撃たれ海に消えました。長谷川豊記軍曹(徳島県出身)と相星(名、出身地不明)はスマトラ島のバカンシアピアピから二トンたらず船でマラッカ海峡を横断し、マレー半島沿岸を北上してタイ国へ脱出し日本に帰国しました。私は十一月十六日に逃亡し日本に帰ろうとバカンシアピアピに行きましたが、インドネシア軍に捕まり独立戦争に参加することになったのです。日本人として減私奉公し軍務に励んだ結果が戦犯でした。逃げなければ私は確実に銃殺だった。
今はインドネシア人の妻との間にできた子供が、大阪府立大と神戸商科大に留学し、子供の成長だけが楽しみです。死ぬ時はやはり日本人として日本に帰って死にたいと思います。>
「帰らなかった日本兵 」長 洋弘 (著) 朝日新聞社 平成六年刊 P二百十六〜二百十七

たったこれだけのエピソードしか掲載されていないこの方を安倍首相がどうして残留日本兵の代表として献花したか私には理解できませんでした。
「インドネシア独立戦争に参加した『帰らなかった日本兵』、一千名の声 」を見ると、ご子息のヘル サントソ・衛藤氏が福祉友会理事長として掲載されていましたが、少しは関係あるのでしょうか?

今日は夕方から店を開けて片付け物、出汁を引いたりしながらチンタラと営業。
二名様来店。
Tさん来店。
淡路島の三原中学時代の同級生である田村が来てくれる。
いろいろと懐かしい話をしながら飲む。
ええな〜
サルでもエビでもない。