「最強の案内人による究極のブックガイド あの戦争を読む」佐藤優、保阪正康

「最強の案内人による究極のブックガイド あの戦争を読む」
5月5日火曜日晴れ⚪️
週刊文春五月七日・十四日号に掲載されている「最強の案内人による究極のブックガイド あの戦争を読む」p百三十六〜百四十九に最初にでっかく半藤一利氏と佐藤優氏が出ていて、やっぱり保阪正康氏も出ている。

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保阪正康氏のお勧めの陸軍関係の本四冊の中に自分の著書「昭和陸軍の研究上下」(朝日文庫)を入れてあったのには笑った。

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以前に書いた事がありますが、保阪氏は「特攻隊員たちの遺書が自身の執筆活動の原点」として下記のような事を答えている。
以下引用
<特攻70年:「特攻は日本の恥部、美化は怖い」 保阪正康さんインタビュー
2014年10月24日毎日新聞
特攻とは何か。特攻隊員たちの遺書が自身の執筆活動の原点というノンフィクション作家、保阪正康さん(74)に聞いた。
【聞き手・高橋昌紀/デジタル報道センター】
◇        ◇
ある元海軍参謀にインタビューをした際、戦時中の個人日誌を読ませてもらったことがあります。 特攻隊についての記述があり、「今日もまた、『海軍のバカヤロー』と叫んで、散華する者あり」と記してありました。 部外秘の文字も押されて。この元参謀によると、特攻機は離陸した後はずっと、無線機のスイッチをオンにしているそうなんですよ。だから、基地では特攻隊員の“最後の叫び”を聴くことができた。
「お母さーん」とか、女性の名前もあったそうです。「大日本帝国万歳」というのはほとんどなかった。ところが、そうした通信記録は残っていない。故意に燃やしてしまったに違いありません。“軍神”が「海軍のバカヤロー」と叫ぶ。それは当局にとって、隠蔽(いんぺい)すべきことだったでしょうから。

高校時代に「きけわだつみのこえ」を読みました。それが特攻隊について、考えるようになった契機です。その後、生き残りの隊員や遺族らに取材を重ねてきました。学徒出陣した上原良司氏(陸軍大尉。 1945年5月、沖縄で戦死)の妹さんは、兄と仲間たちの会話を手帳に残していました。彼らは「向こうの奴(やつ)ら(=米軍)何と思うかな」「ホラ今日も馬鹿(ばか)共が来た。こんな所までわざわざ自殺しに来るとは間抜けな奴だと笑うだろうよ」と言い合っていたそうです。取材後の彼女の何気ない言葉は重く、響いています。「指揮官たちは『後に続く』と言いながら、誰も飛び立たなかったそうです。その言葉を信じた兄たちが事実が分かったら、どんな気持ちになるでしょう」

高級参謀をはじめ、日本の職業軍人とは何者だったのでしょうか。英国は階級社会ですが、国を守るという点では王族・貴族もありません。戦争で死ぬということについて、平等性がある。戦争に貴賤(きせん)なしです。日本でも高松宮さまなどは前線勤務を希望していたようです。
ある陸軍大学校出身の元参謀には「息子を入学させるなら、陸大だよ」と言われました。
彼の同期50人ほどのうち、戦死は4人だけだったそうです。エリートは前線に行かず、戦争を美化するんです。

兵士への危険負担を限りなく、低くすることが本来の指揮官の役割です。国民的バックグラウンドの下で、西洋の民主主義国家にはそれがあった。彼我の戦力を客観的に分析する。物量主義も、兵士を死なせないためにあるんです。日本にあったのは生煮えの軍事学です。仏独に学んだ上っ面だけの西洋軍事学に“日本精神”である武士道を乗っけた。「武士道と云(い)ふは死ぬこととみつけたり」(「葉隠」)の文言だけを取り出し、都合良く利用した。

特攻は日本の恥部です。命を慈しむ日本の文化や伝統に反することです。
命中率99%であったとしても、だめなんです。志願を建前としていましたが、実際には強制でした。本人が望んでいない死を要求し、死なせる。こんなものは軍事ではない。国家のため、大義のためという、自己陶酔でしかない。戦争とは人の生死をやり取りする闘争です。ロマンなどないんです。特攻は米軍に畏怖(いふ)心を与え、日本本土上陸をためらわせた−−との説がありますが、とんでもない。
米軍は暗号名「コロネット」「オリンピック」などの上陸作戦を着々と準備していました。
一方の日本軍は「義勇兵役法」で国民の根こそぎ動員を決め、1億総特攻に駆り出そうとしていた。国民一人一人が特攻要員だったんです。

「特攻隊員は我々である」との視点が必要です。あの時代に生きていれば、あの時代が繰り返されれば、自分も特攻隊員になるかもしれない。特攻を考える時、必要なのは同情ではなく、連帯感です。隊員の苦衷、苦悶(くもん)が分かれば、美化することなどできないはずです。「特攻で死んだ人に失礼ではないか」「彼らのおかげで今の日本がある」などと言ってくる人がいます。 どうして、そんな軽々なことを言えるのか。特攻を命じた指揮官たちと変わりませんよ。
http://mainichi.jp/feature/news/20141024mog00m040003000c.html

引用終わり

そりゃ、言論の自由だから、何を言ってもいいだろう。
ただ、特攻機は出撃した後、目的地に着くまで発信はしないと書いてあったものもあるし、当時の無線機が本当にそれだけの「声」を基地まで届けられたのだろうか。
三式空一号無線電話機では電信、電話とも使えたが、対地通信距離一八五kmらしいし、当然、電信の方が安定しているし遠くまで届くために電信を使っていたのではと思うが、どうなのでしょう。でも、残っては無いが燃やしてしまったに違いないって、まるで朝鮮人なみの結論の出し方はいかがなものか。
あと、
<ある陸軍大学校出身の元参謀には「息子を入学させるなら、陸大だよ」と言われました。
彼の同期50人ほどのうち、戦死は4人だけだったそうです。>

「一高、三高、海兵、陸士」と並び称された当時の最難関のひとつである陸軍士官学校卒業生で、ましてや、五十人程度しか入学出来ない陸軍大って息子をそんなに簡単に入学させるつもりで入れるとこなんですか。
それと、陸軍大学において、五十名程度の期というと
四十期  四十七名中五名戦死(他自決一名 病死一名)
四十一期 四十九名中七名戦死(うち戦病死一名、他法務死一名、病死一名)
四十二期 五十一名中一三名戦死(うち戦病死一名、他法務死一名、病死三名)
四十三期 五十一名中八名戦死(うち戦病死一名、他病死四名)
四十四期 四十九名中五名戦死(うち戦病死一名、他殉職一名、病死一名)
四十五期 四十九名中一六名戦死(うち戦病死二名、他病死一名)
四十六期 五十一名中六名戦死(うち戦病死一名、他殉職一名、病死一名)
四十七期 四十五名中 七名戦死(うち戦病死一名、他病死一名)
四十八期 三十九名中 八名戦死(うち戦病死一名、他病死二名)
四十九期 四十一名中 五名戦死(うち戦病死二名)
五十期  四十一名中 二名戦死
五十一期 五十一名中七名戦死(うち戦病死一含む)
五十二期 五十二名中二名戦死(他一名病死)
五十三期 四十九名中五名戦死(他暗殺一名、自決三名)

このように五十名程度の期でも二〜十六名と幅があります。四名という戦死者の期はございません。その四名の戦死者は戦病死を含まないとすると、四十四期 四十九名中五名戦死(うち戦病死一名)となるが、どうなんですかね?
この「特攻隊員たちの遺書が自身の執筆活動の原点」という保坂氏は当然、特攻隊について詳しいはずなのに、結婚間もない妻を愛機に乗せてソ連の戦車部隊に特攻した谷藤徹夫少尉については何もご存じなかったようで、「妻と飛んだ特攻兵 」の帯に下記のような推薦文を寄せています。

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<保阪正康氏も佐藤優氏も驚嘆>
保阪正康
<こんな史実があったのか。これは「歴史」から蘇った特攻隊だ。
十一人の特攻隊員はなぜ敗戦から四日後に、ソ連軍への体当たり攻撃を考えたのか。妻を乗せて散華した隊員の心情に衝撃を受ける>
佐藤優
<終戦時、陸軍期でソ連戦車に特攻を行った夫婦がいたことを初めて知った。国家への忠誠と夫婦の愛が、特攻という形で示されたことに驚愕した。平和について深く考えるための必読書だ>

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谷藤徹夫少尉については、同じ歴史家の秦郁彦氏などは約二十年も前の著書「八月十五日の空: 日本空軍の最後」に昭和四十二年に建てられた神州不滅特別攻撃隊之碑の事を含め詳しく書かれている。
手元にある「別冊一億人の昭和史 特別攻撃隊」(毎日新聞社 昭和五十四年刊)にも「満州特攻秘話 新妻を乗せて体当たり」と題し掲載されている。P二百八十〜二百八十一
特攻についてであらば、少し興味ある方だと絶対に目を通すであろう特攻隊慰霊顕彰会の会誌「特攻 第六号(昭和六十三年三月二十七日号)」にも掲載されている。
それなのに、特攻に詳しいはずの保阪正康氏が谷藤少尉の事を知らなかった。

流石は殉死された黒木博司少佐、樋口孝少佐のお二人が十二時間生存していたことからわかる様に、十時間以上活動出来る酸素が艇内にあるという回天の構造も知らないくせに赤い渡辺恒雄とともに下記のような事をホザイタだけのことはあります。
<渡辺
日本軍の残虐性を象徴的に示しているのは、特攻だと思います。みんな志願して特攻にのぞんだと言われていますが、上官に命令されたんですよ。上官は天皇の命令であり、志願しないとぶん殴られるから出撃する。だけど怖くて途中で帰ってきちゃう人もいた。三度帰ってきて、ひどい目にあったという特攻兵だっているんです。人間魚雷・回天にいたっては出撃すると外には出られませんでしたからね。

保阪
回天という特攻兵器は、見ただけで涙がでますよね。本当にひどい。この特攻兵器の搭乗員として訓練中に亡くなった学徒兵(東大生)は、機器が故障し、海中で一時間程閉じ込められたままで亡くなっています。私は、この学徒兵がその間何を考えていたかと考えるのですが、自らの生まれた時代の残酷さに強い怒りを持ったと思うのです。

渡辺
ねえ、あんな残酷なことを二十世紀に、天皇の名においてやったんですから、こういうことをはっきりさせなきゃいかんですよ。>

「論座」平成十八年十一月号 私は「靖国問題Q&A」(内田雅敏 スペース伽耶 平成二十年刊)より引用P二十四〜二十五

東大卒の回天乗組員でお亡くなりになられたのは、
宇都宮秀一大尉(石川県出身 予備学生三期 大津島より菊水隊にて昭和十九年十一月八日出撃 昭和十九年十一月二十日パラオ コッツルにて戦死)
亥角泰彦大尉(京都府出身 予備学生四期 昭和二十年四月三日出撃 昭和二十年四月十四日戦死)
和田稔中尉(静岡県 予備学生四期 昭和二十年七月二十五日光基地にて訓練中殉死)の三名。

保阪氏が書く訓練中の殉死は和田稔中尉である。
保阪氏は歴史家を名乗り、「回天」について述べながら回天というものがどういう構造で、どのような性能を持ったものかということさへ調べていない。というか、知らない。知ろうとしない。
だから、「この特攻兵器の搭乗員として訓練中に亡くなった学徒兵(東大生)は、機器が故障し、海中で一時間程閉じ込められたままで亡くなっています。私は、この学徒兵がその間何を考えていたかと考えるのですが、自らの生まれた時代の残酷さに強い怒りを持ったと思うのです。」などという戯けた事を平気で言うことができる。

回天とはどのような性能を有した兵器であったか。
実戦に使用された一型は我が国が誇る九三式酸素魚雷を基にして製造されたもので、
長さ十四・七五メートル、直径一メートル、総重量八・三トン、頭部炸薬量一・五五トン。
航続距離
三十ノットで二十三キロ、
十二ノットで七十八キロ(十二ノットで約二時間十五分)
という性能を持つ。

終戦後、マッカーサー司令部のサザーランド参謀長は、日本軍の軍使に対し、「回天を積んだ潜水艦は太平洋に後何隻残っているか」と真っ先に尋ね、「十隻程いる」と聞き、「それは大変だ。一刻も早く戦闘を停止してもらわなければ」と顔色を変えたという。
別の米軍士官は、「日本軍で怖いのは回天だけだった」と語った程、いつ攻撃してくるかわからない、近くにいるのかいないのかわからない「海中の見えない脅威、回天」が恐れられていたのは、発射されてから二時間も目標を探し、七十キロ以上も航続距離のある炸薬量が一トン半もあるので一発で巨艦も撃沈できる兵器だからである。

殉死された黒木博司少佐、樋口孝少佐のお二人が十二時間生存していたことからわかる様に、十時間以上活動出来る酸素が艇内にある。

保阪氏が回天という兵器についての性能も作戦も知らないだけでなく、和田中尉の遺稿すらよく読んでいなかったのではないか。

和田稔中尉は光基地より回天戦に出撃した伊三六三潜の中で日記に下記の様に書いている。
<五月二十九日
回天は、人一人が動かすものにあらず。神国三千年来の精気ここにこもれる楠氏、湊川神社の新符が、七生報国の頭上にありて、人を操り給うものなり。
最悪の事態を予想するも、仮初にも軽率の行動を慎むべきなり。
残気三十に至らバ、三十三Kによる突撃不可能なり。思い切りよく浮上停止すべし。隠忍、呼吸続かんかぎり敵を待ち、敵三百米に近づくに及びて再発動、冷走にてそれに迫れ。敵回避して、追躡不可能と見れば、直ちに自爆す。現在の炸薬量なれば、百米付近にて自爆せば、敵に相当の被害を与えん事必定なるべし。
このためにも、応急食糧は少なくとも二コ。更に潜水艦よりサイダー等の飲料水数本を搭載しおくこと必要なり。
なお、かかる際にも絶対に、潜水艦よりの救助のごときは念ずべからざる事、言うまでもなし。>
「わだつみのこえ消えることなく」P二百六十九

特攻隊員として回天搭乗員に応募する前の航海学校時代に書いた昭和十九年七月二十二日の日記には回天について下記のように書き残している。

「人間魚雷の考え方について
現在ではこのような兵器によるほかは、打開の途はあり得ないのではないか、航空機の消耗率は敵に与える損害に比しあまりにも大であるし、艦艇の接敵は、敵の電探下、ほとんど隠密行動不可能であり、魚雷艇また劣速、惰弱に過ぎるであろう。
私はこうして、もし人間魚雷というものが日本にも現れ、また現に採用されつつあるとすれば、それに搭乗するのは、私たちをおいてほかにないであろうということを、不思議にてきぱきと、そして落ち着き払って考えてみるのである。」
「わだつみのこえ消えることなく」P百九十二

昭和十九年十月十八日に特攻隊を志願した日の事も残されている。
<十月十八日
余死し、旦(木下注 弟)死したる後は、もし豊子に二子あらば、家を続けさせられきこと、美保子、若菜(ともに妹)にても可。
本日昼休み、道場に窓ガラスを全部閉めきって総員集合あり。隊長の訓辞。
午後の砲術学校での機銃繰法は、すっかりぼんやりと過ごしてしまう。
しかしまた何と落ち着いてしまったことか。
分隊長は「思い残す事は無いか」と言われた。「一時の感情や興奮ではないか」と言われ、そして「静かに死ねるか」と問われた。そして「よし許可する」と言われた。たしかに、今さっきまで、どきついていた心の群が落ちこんでしまっているのを感じている。
お母さん、お許しください。私は、家の人々のなげきを考える。けれども、これほど私は重大に思えるくせに、何でもないことはないのだ。
お母さんの子が、一度戦争に出て、そしてそこに、敵撃滅の大きな鍵を、私の小さな命であがなえると知った時、やっおありその時は、私だってお母さんの子としてよりも、祖国の子としての自分を願みるようになるのです。
でも、私は、きっと私がお父さんの子であり、お母さんの子供だったことを叫んで死んでゆけることと思います。(この日特攻隊を志願する)。
私は武田を思う。あいつは私の表情を夕食の時から見やぶっていた。何のてらいもない武田の顔が私にはまぶしい。>

<十月十九日
田辺も今朝志願したことを知る。
だから、私はまじめなことを日記みたいなものに書くのは嫌だと言うのだ。
私はとうとう選にもれてしまった。理由は、家に男子が少ないし、長男だからというのらしい。
私の班の呉石も前田もみんなたくさんの男の子供の次男坊、三男坊である。だから武田も入ってしまっていた。まだ、第一次の選であるにしても、彼が行ってしまうだろうことは、たまらなく寂しい。

<十月二十日
朝、二度願い出て、ついに許された。夜、区隊長、分隊長訓辞あり。
分隊長が声を出して泣かれる。>
「わだつみのこえ消えることなく」P二百十六〜二百十八

和田中尉は昭和二十年五月二十八日、伊三百六十三潜にて出撃も、回天戦の機会なく六月二十日帰投命令。
昭和二十年七月三十一日に再び出撃が決まり、七月二十五日水中からの潜水艦よりの発射訓練中に殉職された。
訓練中の殉職であり無念であったであろうが、国を思う気持ちに対し、後世の人間がとやかくいうべきことではない。

大した歴史家もいたもんだ。
佐藤優氏も「鳩山由紀夫氏は”決断”の専門家」とほざいた御仁です。
鳩山由紀夫氏について佐藤優氏は、インテリジェンスに通暁しているというイスラエル人の外交官時代から友人に教えてもらった分析法にて、要人の行動様式を分析するためには、二十歳の頃に何をしていたかについて調べろ。二十歳のころに身に付いた思考様式は、その後も基本的に変わらないとして鳩山氏は数学の演習に熱中していて、特に偏微分方程式の演習に熱中していた。そしてマルコフ連鎖に行き着いたとして、「鳩山氏は確率論に基づいた決断のプロだ」として下記のように書いています。

<鳩山総理は、小沢・検察戦争、米海兵隊普天間飛行場移設問題でも発言がよくぶれる、優柔不断で決断力がないという評価が定着している。しかし、その見方は間違えている。鳩山氏は、高度な数学を用いた意思決定論の専門家で、いつ決断をすれば、もっとも有利な結果を得る事ができるかを明確に意識しているというのが、筆者の見立てだ。
略)
このような風説により、鳩山総理の能力を過小評価する傾向がある。これは危険だ。
国会議員で、大学教師の履歴を持つ人はかなりいる。その大部分が学者としてrは二流以下で、ろくに研究業績も残していない。こういう政治家は選挙のときの箔をつけるために、大学を腰掛けいしたに過ぎない。
これに対して、鳩山総理は、米国の名門スタンフォード大学で修士号を二つ、博士号を一つとった本物の学者だ。
ちなみに米国の名門大学で博士号をとるためには、英語力のみならず高度のディベート(討論)能力も求められる。そのとき重要なのは論理力だ。筆者は、鳩山氏の英語論文をいくつか読んだが、いずれも知識人の英語で書かれ、論理構成もしっかりしている。>
p六十四

<それでは、鳩山総理が考える目的関数とはどういうことか。大きな意味では、日本の国家体制を最大限強化するということであるが、下位の目的関数もある。
ここで、焦眉の課題となっている普天間問題について考えてみよう。ここでの目的関数は、日米同盟を強化することだ。その目的関数にとっての制約条件が、沖縄県民の動向、社民党の動向、国民新党の動向、小沢・検察戦争、中台関係、米朝関係などだ。これらの制約条件は時間の経過とともに変化する。それぞれの制約条件の変化を、鳩山氏は趣味レーションし、それがどうなるかを考えている。
そこで重要なのが、鳩山氏が民主党も日本国家も理想的な状態でなく、壊れていると認識している事だ。壊れた機械の一部分の部品を取り替える事で、最大の効果をあげようとしている。>
p六十六

<鳩山氏は、決断をする直前の状況だけしか考慮しない。政治決断において、しがらみを無視する事が最適な決断のために不可欠なのである。歴史や伝統はしがらみに過ぎない。
鳩山総理は、普天間問題について、ぶれているとはいささかも思っていない。
鳩山氏がこれまで決断したのは、ただ一つ。今年五月末(木下注 平成二十二年五月)までに普天間飛行場の移設先を具体的に決定するということだけだ。
現時点で、移設先として名護市辺野古のキャンプ・シュワブ陸上、日米合意の同沿岸、あるいは沖縄県知事が容認した同沖合、それ以外に鹿児島県の徳之島、あるいはグアム島などさまざまな固有名詞があげられているが、鳩山総理は、具体的な事は何も考えていないというのが、筆者の見立てだ。
三月から四月にかけて、有力な具体案が出てくる。恐らくその案を鳩山氏が採ることはない。それはお見合いにたとえれば、最適の候補者となるからだ。そして、千人のうち三六八番目と比較して、その後出てくる少しでもましな候補者と結婚するように、五月の大型連休明けくらいに鳩山総理は、その直前の案と比較して少しでもましな場所を普天間飛行場の移設先にする。>
p六十八~六十九

sintyou45.24.11.21
<外務省に告ぐ(十八)
「実は『”決断”の専門家』 鳩山研究論文で読み解く、総理の実像」
新潮四五 平成二十二年四月号p六十二~六十九 佐藤優>

そうか、佐藤優氏のいう「決断の専門家」とは、沖縄普天間基地移転を平成二十一年七月に最低でも県外といい、十一月三日の日米首脳会談で「私を信じてほしい」とほざき、翌年三月四日には記者団に対し「三月中のいずれかの時点には政府の考え方をまとめなければいけない」と述べ、三月中には普天間基地移設先について政府方針をまとめると表明したのち、移転問題を迷走させ、総理大臣を辞めたら政治家を引退するといいながらそれを撤回したりするどうしようもないドアホウの鳩山由紀夫が「決断の専門家」か。
この佐藤優という人の頭の構造はどうなっているのであろうか。

こんなやつらが偉そうに本を薦めている。

あほらし。

今日は、古本屋さん巡りをした後は、一日中部屋にいてゴロゴロと本を読んで終わる。
酒は飲まず。

エビでもサルでもない。