米軍による醜い遺体処理について
平成17年9月24日土曜日雨 ○ S
朝風呂に入ったあと、昼頃に大宮の駅からタクシーに乗り青葉園にいく。昨年も訪れたが、ここにはソビエト軍の毒牙にかかった従軍看護婦の方たちをお祀りしてある青葉慈蔵尊とともに、その右隣に卑劣なマッカーサーの復讐のための名ばかりの裁判によりフィリピン・ロスバニオスにて昭和21年2月23日に、その崇高な人格とりっぱな戦暦をもつ軍人らしからぬ不名誉な絞首刑にされた山下奉文大将の墓があります。
マッカーサーがその著書『マッカーサー回想記』でこのマニラ裁判について
それどころか、本裁判は一点の曇りもない真実、完全な真実、なんの虚構もともなわない真実の光の中で行われた。
と書いていますが、これは詭弁であり、マッカーサー自身のそう思いたいという願望としか言い様のないことで、事実は屈折した精神をもつ彼自身が一番分っている完全な復讐裁判であったことは確かです。
山下大将は昭和20年9月3日に降伏し、戦争犯罪者として起訴されました。裁判は10月29日に始まり真珠湾攻撃の前日にあたる12月7日に絞首刑の判決。そして昭和21年2月11日、紀元節の日にマッカーサーから処刑執行命令が出され、2月23日の初代アメリカ大統領ワシントンの誕生日であるワイントン・デーにマンゴーの木に作られた簡易処刑場で絞首刑にされます。迅速だけの復讐裁判です。命からがらフィリピンより部下を捨てて逃げ出したマッカーサーはこの間にも裁判を急げとせき立てます。自らの恥辱を晴らさんと復讐に燃えるマッカーサーにより、山下大将は軍人でありながら軍服を禁ぜられ、カーキ色のシャツ、ズボン姿で敵軍である米軍の作業帽をかぶせられ、欧米では一番恥ずべきものとされる絞首刑により処刑されました。そして、その遺体の埋葬場所は秘密にされたままです。
米軍による戦犯遺体処理について
9月27日火曜日晴れ
いわゆるA級戦犯といわれる7名の方はもとよりBC級戦犯といわれ処刑された方々の埋葬などは秘密にされ、御遺族にも知らされていません。これは連合国側がこれらの英霊が英雄崇拝の対象になるのを恐れたためともいわれています。たとえば、我が国の巣鴨プリズンにおいて絞首刑された59名と銃殺1名の英霊(いわゆるA級戦犯とされた7名、BC級戦犯とされた53名)に対しての遺体処理を、昭和21年3月13日付GHQ極秘文書により「絞首刑による戦犯の遺体は自己所有の軍服から肩章と略章の一切を剥ぎ取って埋葬せよ。墓には白塗の木札を立て、ただ墓標番号だけを記せ」と指示、さらに昭和23年8月13日付の新たな指示として「処刑された戦犯の遺体は火葬に付し、遺骨は極秘裡に処分すること、またその処理に当たっては佐官級の高級参謀に責任を負わせ、遺体の身元や処分した場所など一切外部に漏らさぬ事」とあり、文章の指示にそって処理された。
最初の極秘文書により13名の方々が埋葬されたが、その御遺体は昭和23年10月13日に掘り返され、横浜・久保山で火葬とされました。
極秘であるはずの巣鴨プリズンで処刑された方たちの遺体処理がどうして久保山斎場で焼かれたことがはっきりしたかというと、飛田美喜久保山斎場長が昭和23年8月23日8月21日以降、日に追って火葬された遺体と翌日新聞に発表される処刑者数とを突き合わせた結果、その数が一致したからだそうです。
いわゆるA級とされる戦犯の方々7名は昭和23年12月23日に処刑されました。この12月23日とはその時の当時の皇太子つまり今上陛下の誕生日です。その日に合わせて刑が執行されたのでした。
その英霊7名の遺骨は伊豆の興亜観音の境内にある〈七士之碑〉に納められていますが、これは刑の執行後、東京裁判の弁護人だった三文字正平氏、飛田美喜久保山斎場長、久保山斎場のすぐ隣にある興禅寺の市川伊雄住職の3人が再火葬がすみ、七人に区別しておいた骨を進駐軍が砕いてごちゃごちゃに一つにし、それを黒塗りの箱に収め、いずれかに持ち去ったが、収め方が粗雑だったために残った中小の骨や細骨、骨灰などをコンクリートの骨捨て場に捨てたものを、厳重な警戒のもとにある久保山斎場に三人が二十六日の夜半、骨捨て場に忍びこみ、拾い上げたものです。ですから7名の皆様の遺骨が混ざってしまっています。それらは大人の骨壷1個分ぐらいしかなかったそうです。(写真は昨年参詣させていただいた時のもの)
その遺骨は昭和35年8月18日に愛知県幡豆郡幡豆町の三ヶ根山山頂付近に殉国七士廟が設けられ、その中の殉国七士の墓に遺骨が分骨されて安置されました。
久保山斎場で焼かれたその他の戦犯とされた英霊の遺骨も、大きな骨は米軍が全部拾い集めて持っていってしまいますので、共同骨捨場から残った細かい骨と灰を飛田場長が丁寧に集めて、火葬場の片隅に掘った穴の奥にひそかに納めておいたそうです。巣鴨での処刑が打ち切られてから、飛田美喜久保山斎場長はここに供養塔を建てようと思いつきましたが、我が国がまだ占領されていた時の事ですので、何ごともマッカーサーの司令部に問い合わせなければなりません。許可願を出したところ、供養塔の建立は許可になったそうですが、塔の表に「供養塔」の三文字以外は絶対に書いてはならぬと指示があったそうです。また、建立者として、火葬場の職員の名前以外を書く事も許可にならなかったそうです。
それにより、今も残るこの建立された供養塔には表の「供養塔」と裏に「昭和二十年十月八日之建」と火葬場長を含む6名の名前が記されているだけです。
そして、サンフランシスコ講和条約に調印して我が国が独立したあと、供養塔の下に埋もれていた遺骨や遺灰を取り出し、英霊六十名の分として御遺族に等分に分骨したそうです。
もちろん御遺族に届けられた白い壷に納められた遺骨は、御本人のものも混ざっていることは間違いないという程度のものでしたが、マッカーサーによる酷い仕打ちを受けた御遺族にとりありがたいものだったには違いありません。
アメリカ軍による復讐裁判がほぼ終わった昭和24年4月フィリピンに独立を与え裁判の続行をゆだねました。そのフィリピン政府による6年間の続けられた裁判により93名の死刑が確定し、17名の死刑が執行されました。この17名の遺骨はのちに掘り返されて、御遺族の元に帰りました。これがBC級戦犯とされた方がたでは数少ない例です。後は私の知っている限りでは、金子啓蔵氏の御苦労により遺骨が御遺族の元へと帰された堀内豊秋大佐の例だけです。
以上参考文献及び引用文献 (正論2005年10月号 戦跡を歩く)(巣鴨プリズン13号鉄扉 上坂冬子)(償いは済んでいる 上坂冬子)(東京裁判 人物往来社刊)
あの特攻隊の事を屈辱し酷く書いている古川利明氏がその同じ著書「カルトとしての創価学会=池田大作」の中で「石原莞爾の遺骨は東条英機と一緒に、東京・江戸川区にある国柱会の妙宗大霊廟に納められている」(P179)などと書くのは、東条大将の遺骨とされるものが如何様な経路を経ているかを知り、そして考えればこのような事は書けないのが普通です。悲しい事に東条大将個人と特定できる遺骨は無いのですから・・・・・